2014年02月20日発行 第0785号 特別
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■■■ 日本国の研究
■■■ 不安との訣別/再生のカルテ
■■■ 編集長 猪瀬直樹
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「家庭の幸福は諸悪の本」(猪瀬直樹著『作家の誕生』朝日新書より抄録)
太宰治は晩年、愛人と家庭との狭間で大きく揺れていた。『斜陽』のモデル
になった太田静子との間に女児をもうけるが、まだ静子が妊娠中につぎの愛人、
美容師の山崎富栄と付き合いはじめた。太宰が富栄と初めて会った三日後に、
妻美知子は次女を出産している。
世間的に見ればまったく困った亭主だが、そうした事情を妻はうすうす勘づ
いてはいても余裕がなかった。すでに長女、長男がいて三番目の女児が生まれ
たのだ。
とくに病弱な三歳の長男は手がかかった。赤ちゃんもいるし、お風呂へ入れ
るのも難儀である。小さな借家で、木製の風呂桶へ井戸端から水を運び入れ、
薪で沸かすだけでもたいへんだった。近所の銭湯に頭を下げ、一番客が来る前
に三人の幼児とともに裏口からこっそりいれてもらったりもしていた。水汲み、
風呂わかし、たらいおむつの洗濯、挙げ句に亭主は酔っぱらって戻って来る、
しかも編集者や呑み仲間の作家をぞろぞろと従えて。酒をお燗し肴を出す。
合間に子供を寝かしつけなければいけない。
しかし、太宰治は、妻の苦労を知らなかったわけではない。心中事件の三カ
月前に脱稿した『桜桃』の冒頭で「子供より親が大事、と思いたい」と記しな
がら、家族の夕餉の光景へと場面をつなげた。
「母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と
長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻
をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして」いると思うのだった。
太宰の心中事件は男の身勝手には違いないが、いっぽうにこの夕餉の光景が
あることを忘れてはならない。
太宰は『桜桃』を書きながら、別に『家庭の幸福』という短編で、家庭だけ
が大切との考え方に疑問を抱くのである。
主人公は「津島修二」、太宰の本名をあてている。三十歳で町役場に勤める
戸籍係の設定。六歳の長女と三歳の長男、妻と老母と五人暮らし。「模範的な
戸籍係」「細君にとっては模範的な亭主」「老母にとっては模範的な孝行息子」
「子供たちにとっても、模範的なパパ」がなにをしたか。
宝くじで千円当てた「津島修二」はラジオを購入した。ラジオが店から家に
届く日、一刻も早くラジオを囲む家族の笑顔が見たくてうずうずしている。帰
宅時間となり、「津島修二」は窓口を閉める。そこへ「いきせき切って、ひど
く見すぼらしい身なりの女が出産とどけを持って彼の窓口に現れる」のだ。い
わくありげな女は「おねがいします」と懇願する。だが彼は「あしたになさい、
ね、あしたに」と断った。女はその夜半、自殺する。
結びは「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」。
「家庭の幸福」の「津島修二」は一介の戸籍係で、世間一般では「善人」と呼
ばれる人だろう。だが、「善人」の化けの皮を剥げば、処世のみに汲々とする
醜悪な「悪人」の本性が露わになる。彼らは自分の気づかぬところで他者を抑
圧し、不幸に陥れても心の傷を意識せずにすむ。世間からは「いい人」として
認められているからだ。この小品はマイホーム主義への皮肉であり、井伏鱒二
を悪人とみるヒントが隠されている(編注、詳しくは『ピカレスク 太宰治伝』
参照。http://bit.ly/1eWqIxW )。
『桜桃』のなかの夕餉の光景、妻美知子の存在感があったからこそ、心中の直
前ぎりぎりまで、玉川上水の土堤に坐ってもまだ引き返す算段があった。だが
「家庭の幸福は諸悪の本」でもあるのだ。実際のところ、こうした揺れがなけ
れば名作は生まれない。
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