[MM日本国の研究782]「作家の背中」
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2014年01月30日発行 第0782号 特別
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■■■ 日本国の研究
■■■ 不安との訣別/再生のカルテ
■■■ 編集長 猪瀬直樹
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「作家の背中」(1990年)
僕は自分のオフィスでワードプロセッサーに向かい原稿を書いているから、
僕の娘や息子は仕事をしている父親の後ろ姿を見たことがない。昔のもの書き
は和服の裾を乱してあぐらをかき、炬燵や文机の周囲に原稿用紙を散乱させて
いた。武士が痩せ我慢しながら長屋で傘貼りをしているのに似て、きわめて人
間的な光景だったと思う。
そんな昔のもの書きの姿を、その娘が綴った『父の背中』という本がある。
著者の藤田富美恵さんはもう60歳近い人で、その彼女の幼い時分の思い出な
ので戦前の話である。
藤田さんのお父さんは秋田實といい、漫才の台本づくりのパイオニアで、そ
の世界ではかなり有名な人物だった。東京帝大で大宅壮一と同級生だったとい
えば、およその年代は想像がつくだろう。
漫才がいまのような形に近くなるのは昭和6、7ごろであるらしい。ようや
くラジオが市民生活に溶けこみ、六大学野球の実況が人気だった。エンタツ・
アチャコのコンビがそういう風俗ネタを取り入れ、「早慶戦」をヒットさせた。
洋服姿のしゃべくり漫才になる以前は「万歳」であり、太夫は烏帽子に大紋、
袴だった。
たまたまひとりのインテリ青年が変革期の漫才の世界に入り込み、一世を風
靡する芸能にまで押し上げる力になったのである。肩肘を張ったテーマを追う
より、ちょっと世間という匂いがする広場に出てみたい、そういう誘いはもの
書きには抗しがたい魅力になるものだ。誰でも自分の青春がひどく俗悪に見え
てくることがある。僕には二十代後半に風変りな選択をした秋田實の気持ちが
わからないではない。
ある日、小学校から帰った娘は秋田實が原稿を書いている後ろ姿を垣間見る。
手拭いに鉢巻き姿だった。原稿料が入った日、父親はめずらしく娘に「散歩い
こッ」と声をかけ、黒いトンビを羽織った。月刊誌『少女の友』とお菓子を買
ってもらった。冬の散歩の楽しみは、そんなお土産をしっかりかかえ、トンビ
のなかに入って空いたほうの手で父親の着物のたもとをギュッとつかんで歩く
ことだった。そして思うのだった。
「ずっと冬がつづけばいいのにな」
スーツを着てオフィスに向かうとき、僕は自分の娘や息子にちょっとだけ背
中を見せているはずだ。肩のあたりがよれているかもしれないが、まあいろい
ろあるんだ。いずれわかるさ。そのうちに教えてやろう。
「帆を張っているようなものなんだぞ」
(猪瀬直樹著『僕の青春放浪』1998年、文春文庫所収)http://goo.gl/SzAfq4
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