結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2018年10月30日 Vol.344
はじめに
結城浩です。
いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。
『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』が出版されて一息ついたのもつかの間、結城は別の本の脱稿に追われています(脱稿に追われるって変な表現ですね)。
さらに、最近お休み状態になっていた『数学文章作法 執筆編』の執筆も再開しました。これからもどんどん書いていきますよ!
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パズルゲームの話。
結城はiPhoneでパズルゲームをするのが大好きです。
先日はEvergarden(エバーガーデン)というゲームをコンプリートしました。ポリゴン風味の美しい画像をした楽しいゲームでした。
一言でいうなら「六角形が並んだ土地に種をまき、植物を成長させるゲーム」なのですが、あちこちに楽しい「仕掛け」がたくさん隠されています。普通のパズルゲームの場合にはチュートリアルやヘルプや基本操作があって、ユーザを導いてくれるのですが、このEvergardenにはそれが何もありません。ルールもわからない。そもそも、何をしたらゲームクリアなのかもわからないのです(!)。
ルールやゴールすら手探りで進むゲームというのは初めてかもしれません。でも、ちゃんとわかるようになっています。オススメ。
◆Evergarden(App Store)
https://itunes.apple.com/jp/app/evergarden/id1364677408?mt=8
◆Evergarden
http://flippfly.com/evergarden/
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好かれる作品、嫌われる作品の話。
ある日「作品の好き嫌い」ということをぼんやりと考えていました。
一つの作品が、ある人には激しく好まれ、別の人からは激しく嫌われるということはよくあります。その作品の熱量の高さのようなものがあって、それが人の好悪に大きく影響するのかもしれません。
多くの人から嫌われる作品と、多くの人から好まれる作品とは、似ているところがあります。どちらも多くの人の心を揺さぶるという点です。そのときのポイントは正負の向きではなく絶対値にあるのでしょう。
これはあくまで想像なのですが、深く嫌われる作品を書くことは、深く好かれる作品を書くのと同じくらい困難だと思います。多くの人が(好悪どちらの感情でもいいのだけれど)深く揺さぶられる作品を書くのはとてつもなく難しいと想像します。もしかすると、嫌われる作品を書く方が難しいかもしれませんね。
なぜかといえば、嫌いな作品のページは単純に閉じられて終わりだからです。大嫌いなのに目を離せない、先を読みたくないのにページをめくるなんて作品を作るのは非常に難しいのではないでしょうか。
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こだわりの話。
作品を作る文脈で「こだわり」という単語がときどき使われます。
「こだわりを持って作る」という表現には「作者がエゴを通す」ニュアンスが多少あります。でも、それは正しいのかしらん。「こだわりを持って作る」というのは、作者が自分のエゴを捨て、作品のあるべき姿に向き合うことではないでしょうか。作品を、作者のエゴでゆがめてはいけません。作者は、責任を果たす必要があります。読者への責任と、作品への責任です。
スローガンにするならこうなるでしょう。
《作者が死ぬことで、作品が生きる》
もちろん、作者が死ぬというのは生物学的に死ぬという意味ではありません。自分のエゴやわがままを前面に出さず、ときにはばっさりとあきらめるという意味です。
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「それは誰が考えるべきことか」の話。
「それは誰が考えるべきことか」と思うことがときどきあります。
たとえば、こちらがお金を払って何らかのサービスを受けているとしましょう。そのときに「こんなことをサービス提供者に求めたら、相手は困るのではないか」という場面があります。サービス内容として明示的に書かれていないことをお願いするときや、時間的な融通を利かせてほしいと思うときです。
「困るかなあ。でも、このくらいやってくれてもいいよなあ」と考えても結論は出ません。サービス提供者が明示していないのだから、結論が出るわけはないのです。困るかどうかは、相手の内部事情しだいであるともいえます。
不作法な振る舞いをするのはよろしくないけれど、困るかどうかを考え続けても結論は出ません。こちらがお願いしたときに、融通を利かせられるかどうかは、本来、相手が考えることだからです。さらにいうなら、こちらの要望を伝えることは、相手に対してニーズ情報を提供しているという面もあります。
相手が考えるべきことまで、自分が考えすぎてはよろしくない。
「いいですよ」となるか「それはできません」となるかは、相手次第なのだから。
最近、そんな場面に何回か出くわしました。
実はこれに似た事情はサービス提供者との間だけではなく、一般的な人間関係にもありそうだと思います。《相手のことを考える》のは愛の原則だから悪いわけではないのですが、本来、相手が考えるべきことまで自分が奪い取ってはいけません。結論が出なかったり、もしかしたら相手に対する越権行為になったりしそうです。
あなたには、似た経験はありますか?
他の人が考えるべきことを自分が考えてしまう経験や、自分が考えるべきことを他の人が考えてしまうという経験です。
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亡き母の言葉。
結城は、今年の春に母が亡くなるまでずっとメールのやりとりを行っていました。毎朝の日課ですね。
母は、ちょっとしたことでも励ますのがうまいのです。
私が脱稿前のたいへんな時期にメールしたとき、私のやや疲れたようすの文章に対して、こんな短い返事が返ってきました。
「お仕事あるの、すごいです。本書いてるって、大したもの」
この返事を読んだとき、まるで「けものフレンズ」のサーバルちゃんみたいな母だ、と思いました。
母と交わした言葉を、折に触れて何度も思い出します。
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では、そろそろ今回の結城メルマガを始めましょうか。
どうぞごゆっくりお読みください。
目次
- 理科でも、算数・数学を使いますよね
- 書く時間がなかなか取れない - 文章を書く心がけ
- 本当にいい勉強法を知りたい - 学ぶときの心がけ
- 思考の瞬発力がない
理科でも、算数・数学を使いますよね
質問
中学理科や高校理科でも算数や数学の知識は使いますよね?
算数・数学が分からないままだと、理科も分からなくなりますよね?
回答
そうですね。
数学(算数)は、科学(理科)にとって、最大の道具であり最高の言葉の一つです。
科学では、数を数えたり、量をはかったり、グラフで表したり、複数のものごとの関係を調べたり、時間的な変化を考察したり、見つけた法則や原理を数式で表したりしますが、それらの活動はすべて数学と関わっています。
数学のすべてを理解しなければ、理科がまったくわからなくなる! ということはありませんが、理科と算数・数学が違う科目だからといって算数・数学をわからないままにしておくのは非常によくありません。
しかも、難しい内容になればなるほど、数学の重みは増していきます。なので、科学(理科)を学びたいと思う人は算数・数学も大切に学ぶことを強くお勧めします。
蛇足ですが「説明文を読んで意味を理解する力」は算数・数学よりもさらに大事になります。
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