兵頭新児の女災対策的随想

表現の自由クラスタオワコン問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

2024/09/13 20:02 投稿

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 目下、『WiLL Online』様で牛角炎上問題について語らせていただいております。
 本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。


 ――さて、本編は前回記事に引き続き、巷に溢れる小山田圭吾擁護のデタラメを暴いた電八郎氏による電書、『小山田圭吾冤罪の「嘘」』のレビューです。
 トップ画像は前著ですが、まあ、これは見た目の差別化を図るためです。
 ともあれ本書(前著じゃなく新刊の方)では小山田の愚行は当時のサブカルの愚劣さの一端として理解する必要があるとし、当時の悪趣味・鬼畜ブームが鋭く斬られていました。当時はそうした、身の毛のよだつような悪趣味・鬼畜AVというものがサブカルによって得意げに製作、視聴されていたのです。
 ただ、それを否定しようとするあまり、電氏もフェミ騎士の論文を引用したりで、そこは頷けない、そうした批判をしたかと思います。
 さて、ではその悪趣味・鬼畜AVとはいかなるものだったのでしょうか。
 ちょっと前回と順序が逆になった感もありますが、サブカルの悪行を忘れないためにもどうぞ、ご一読ください。
 もっとも、お断りしておきますが読んでいて気分の悪くなる内容が延々と続きます。
 苦手な方は、お読みになりませんよう。
 なお、電書にはページというものがないので、引用、紹介した文章の末尾に項タイトルを()内に添えておきますので、ご了承ください。

 さて、ここでは幾人か(一般のAVではない)悪趣味・鬼畜AVの作り手たちの名が挙がります。バクシーシ山下もその一人ですが、彼は著書『セックス障害者たち』において「当時」(と言ってもいつのことかは判然としませんが)は避妊などしなかったと書いています。カンパニー松尾(って、誰?)は「病気になったらなった時だ」とうそぶいていたとのことで、非道い話です。ちなみに同書、編集したのは北尾なんですね(「北尾修一とバクシーシ山下」)。
 また、山下は『女犯』シリーズで本当のレイプを撮影していたのではないか、と疑惑の持たれた人物でもあり、正直ぼくは本件について、表現の自由クラスタ側の「フェミのポルノに対する攻撃」という文脈でのみ見聞していたのですが、本書を読むと印象も変わってきます。
 ただ、同書の引用には、AVスタッフたちの「レイプやったら?」「いいッすね、それ」などとといった会話が頻繁に登場し、驚くのですが、これは当然、「レイプ物のAV」という意味であり、「バクシーシ山下は、出演女性には前もってレイプ作品であることを伝えて撮影許可を取っている」わけです(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。
『オバケのQ太郎』の小池さんは(モデルとなった鈴木伸一氏同様)アニメーターであり、彼が企画会議で「都市に爆弾でも落とすか」と話しているのを聞いてオバQが国際的犯罪組織のメンバーだと思い込む話があるのですが、何だかそれを思わせます。
 ただ、ならば山下の仕事に問題はないのかとなると、そうでもありません。
 同書の引用からの孫引きになりますが、『セックス障害者たち』には以下のような下りもあります(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。

 A子(仮名)にはこの時に、特記事項としてスタンガンを使用することを承諾してもらいました。
 ま、彼女はスタンガンが何なのか、分かってなかったかもしれないですけど。
(194p・仮名は電氏による)


 ぬけぬけと書く山下も悪辣ですが、もし本当にスタンガンが何なのかわかっていないならむしろ、「ガン」という言葉に過剰に脅威を感じるでしょうし、ちょっと怪しいなあと思います。というか、契約した後で「知らなかった」で通用しないのは、社会の常識ではあります。
 電氏も指摘する通り、こうした業界に流れ着く女性には知的能力に問題を抱えた人もいるのかも知れませんが、いずれにせよ前回の『童貞。をプロデュース』でも書いたように、どちらに責を負わせるべきかは、非常に曖昧で微妙で繊細な問題です。
 100%の合意と充分な説明があったとも言い難いが、最低限の説明はあり、女性側もガードが甘かった、といった辺りが正しいんじゃないでしょうか。

 平野勝之というAV監督もまた、この種のものを撮っていた人物で、電氏はポルノ・買春問題研究会による著作『映像と暴力――アダルトビデオと人権をめぐって』の中の宇野朗子「平野勝之『水戸拷問――不完全版』の分析」を以下のように引用しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

浣腸をしたまま、書店にいって『走れメロス』を買いに行かせられる。床についた便をなめさせられる。ミミズを食べるよう要求される。 漏斗で、男優の大量の尿を飲ませられる。失神している顔に、便をかけられる。
(36p)


 同書では中村敦彦『名前のない女たち』も引用されます。この中村、ご承知のように弱者男性への憎悪に満ちた著作があるなど、ぼくも嫌いな人物ですが、ともあれ悪趣味・鬼畜AVに対する筆致は以下のような具合(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 監督は威圧的に『小便を飲むんだよ……口を開けろ!』と、訳のわからないことを怒鳴っている。突き出されたチンチンから小便が出てきて、彼女は口で受け止めた。信じられないほど不味い液体が、口の中に充満して、排泄物の毒素が全身に広がっていくようで気持ち悪かった。小便をした男は鬼のような目でビンタしてきて、『貴様、一滴ももらすんじゃねえぞ!』なんで怒鳴っている。
 悪いことをしてないのに何発も、何十発もビンタをされた。顔を腫らせた麻保子は、殴られる理由を何度も何度も考えたけれど、何も浮かばなかった。
『おい、飲め。全部飲めるだろぉ!』
 監督は偉そうに声を張り上げている。
(348p)


 読んでるだけで嫌になりますし、この種の「企画物AVの女」は契約違反があっても事務所が守ってくれないともいいます(が、今一このソースは判然としません)。
 他にもバッキーについても語られます。
 これは明らかに狂人である栗山竜が代表を勤めるAVメーカーで、『子宮破壊』という聞くだにおぞましいシリーズをリリースし、女性に一生残る障害を負わせ、2004年にスタッフ共々逮捕されています。ディレクターは公判で「バクシーシ山下を目指していた」と語っていたと言います。
 これについては物理的な虐待以上に作り手の女性への嗜虐欲、悪意が壮絶で、本当に読んでいるだけでダメージを受けるので引用は差し控えますが、興味のある方は買って読んでみてください(「バッキー『問答無用 強制子宮破壊』と「監禁友の会」「『女犯』から15年後のバッキー事件」)。

 これらは確かに、いずれも目を背けたくなるようなものですが、しかしやはり重要なのは表向きの残忍さではありません。
 実はぼく、やはり「飲尿物」のAVを観たことがあります。そこでは「素人」の女性が飲尿したいという欲望を抱えて出演者となり、必死の表情で男優に放尿してくれと哀願していました。
 もちろんそれすら借金苦でやむなく出演し、いやいやそうした演技をしていたと言われればそれまでですが、見ている限りそうは思えない。そりゃ、そういうプレイを望む女性だっているでしょとしか言えないし、だからこそフェミニズムは「女は誰一人男とのセックスを望んでいないのだ」との妄想を前提にすることでしか成り立たないわけです。
 いえ、むしろ上の女優は変態的なプレイを哀願する演技に自己陶酔しているようで、いささか閉口させられました(わざとらしい喘ぎ声に醒める感じですね)。
 つまり、女性にも醜悪でグロテスクで陰惨なプレイを望む者がいないとは言えず、重要なのはあくまで女優とのコミュニケーションとリスクマネジメントが機能していたか否か(言い換えれば「レイプ」が虚構か否か)であり、ただ「残忍だから」、ましてや「その表現が女性全体への差別、ヘイトだから」という理由でこの種の表現をつぶすことは、やはり避けられるべきなのです。

 まあ、そこまではぼくも「表現の自由クラスタ」と同意見なのですが、しかしならばそちらに全振りで同意できるかとなると、もちろんそうではありません。
 何しろ、どんな陰惨なAVよりもおぞましいことに、「朝日文化人」たちがこうしたAVに対し、絶賛の限りを尽くしていたのですから。
 先の山下たちは業界内でも地位を確立しますが、電氏は以下のように続けます(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

 これだけなら業界内部の評価であるが、やがて『女犯』や『ボディコン労働者階級』を宮台真司や高橋源一郎や速水由紀子が称賛し、朝日新聞系メディアの『RONZA』や『AERA』までもがバクシーシ山下をAV界の鬼才として祭り上げていく。ちなみに、速水由紀子は当時、宮台真司と交際しており、桜井亜美の筆名で援助交際をネタにした稚拙な小説を書いていた。


 そしてこれも同書で引用されている中里見博師匠の文章の孫引きになりますが(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

「絡みを終えた女優のプライドは、ずたずたに引き裂かれ、中には泣いたり放心状態で動かない者もいる」と指摘しながら、その問題性については一言も述べることなく、逆に「彼〔山下〕は女を欲望の対象ではなく、独立したキャラクターとして撮る。フェミニズムには歓迎されるべきですよ」(太田出版、北尾修一)とか、「彼は欺瞞を剥いで自分の生理に忠実なAVを作った」(山下と「交友を続ける」社会学者、宮台真司)といったデタラメとしかいいようのないコメントを紹介して締めくくっている
(『ポルノグラフィと性暴力 新たな法規制を求めて』114~115p)。


 この中里見師匠はドウォーキン大好きっ子のフェミ騎士であり、彼のスタンスには一切、同意ができません。
 また上を読めば非道い話だとは思うものの、再三繰り返すように、問題は女性との契約時にちゃんとした説明があったか(同意があったか)否かでしょう。
 しかしそれとは全く別個の問題として、北尾は当たり前としても宮台師匠、速水師匠がこれら作品を称揚していたというのはなかなかにショッキングでした。
 もう一人、高橋源一郎師匠(何か、少女漫画に詳しいことを自慢にしている評論家のおっさんです)が『週刊朝日』で『セックス障害者たち』を絶賛していたのにも驚きました。

アダルトヴィデオが男性の性欲を昂進させるためにあるのだとしたら、彼の作品はアダルトヴィデオではあるまい。
(所収『退屈な読書』朝日新聞社・43~44p)


 また師匠は、『週刊朝日別冊 小説トリッパー』における連載でも、バクシーシの作品に称揚の限りを尽くします。

けれど、時々、タカハシさんは単にエッチであるのではないアダルトヴィデオにもぶつかる。
 単にエッチでないどころか、ガンとやられるやつにもぶつかる。そして、ほんとに時々、頭が真っ白になるやつにだってぶつかる。
(所収『文学なんかこわくない』朝日新聞社、1998、101p)


 この「タカハシさん」というのが誰なのかわからず、一瞬考え込んだのですが、ハタと「自分で自分をそのように呼んでいるのだ」と気づき、その尋常じゃない痛さ加減に思わず悶絶しました。
(この後、タカハシさんの311の震災を材に採った社会風刺小説『恋する原発』についても説明がされるのですが、これまた麻酔なしの歯科手術レベルの痛さ)
(以上、タカハシさんについては「「朝日文化人」としてのバクシーシ山下」)

 先の平野は出演者の女性に告訴されたようなのですが、呆れたことにタハカシさんは平野をゴダールに準え、絶賛しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 ウソのような、ほんとうのような、本気のような、冗談のような、深刻のような、明るいような、暗いような、ただわかっているのは「エッチではない!」ことと映画への愛が溢れていることだけというこの超大作AVを見ながら、ぼくは、マンガやコピーを一つの(芸術)ジャンルとして成立させてしまったこの国で、ついにAVまでもがそんなジャンルに仲間入りをしてしまったのかと感心したのだった。
(「北野武もすごいが平野勝之もすごいぞ」所収『退屈な読書』朝日新聞社、190~191p)


 ――このタカハシさんの著作がいずれも「朝日新聞社」から出ていることにも、呆れます。
 そう、朝日は女性への虐待の限りを尽くす狂った作品に対して、絶賛の限りを尽くしておりました。
(ただし、あまりに朝日が続くので、これはこれで電氏の意図があるのかも知れませんが……)
 しかしそれは、考えてみれば不思議でも何でもありません。
 朝日は自分の赤ん坊をフェラチオし、「将来は去勢したい」と口走るフェミニストの児童ポルノを「微笑ましい育児エッセイ」だと強弁し、ベストセラーにした過去があります。
 そもそも(児童へのもの含む)レイプはかねてより、左派にとっては「正義」でした。
 彼らが(児童へのもの含む)レイプを「体制への反逆()」であると勘違いしていたことについては以前も書きましたので、それを参照していただきたいのですが、そうした「勘違い」に「勘違い」を重ねた結果が、このような事態だったのだと言えます。

「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(前編)

 それと何より、ここまでで引用されてきたタカハシさんの文章は、再三AVを肯定的に評しながら、「性欲を昂進させない」「エッチでない」と繰り返していたことにお気づきでしょうか。
 どういうことか。
 そう、タカハシさんは芸術家であらせられるバクシーシ山下様、平野勝之様の女へと虐待の限りを尽くすAVを「体制への反逆だから」お褒めになっておいでなのです(大爆笑)。
 確かに、「残忍なAVもフィクションであれば認められるべきだ」というのは正論です。しかしその時に持ち出されるべきリクツは「需要があるから」、言い換えれば「そうしたものを好む人間も、犯罪を犯さないのであれば許されるべきであるから」といったものであるべきです。
 上の飲尿動画で述べたようにそうした表現がそうした趣味の(男性はもちろん)女性を救済している面もあるでしょう。
 しかし朝日文化人にかかっては、それに政治的な意味づけがなされてしまう。
 そこがぼくには、たまらなく不潔に感じられます。
 それは丁度、表現の自由クラスタの上層部であるサブカル文化人が、「萌え」に対し、親の仇以上に激しい憎悪を燃やしつつ、しかし「体制へと反逆する」口実のために味方のフリをしているように。
 彼らがアニメに何の愛もなく、しかし同人誌の中でも版権キャラを陰惨に虐待するようなものにだけは、涎を垂れ流しながら飛びつくように。
 タカハシさんは(否、左派文化人は全員)エロが大好きという顔をしていますが、当然、エロなど好きではない。彼らがエロの周りをうろちょろするのは、おっぱいの向こうにいるおまわりさんの制服でマスターベーションをしたいからでした。
 近いことはいつも言っていますが、彼らがホモを神であるかのように称揚するのも、当然、それと同じです。彼らはホモを先のスカトロAVと全く同列に見なしており(いや、同列なのですが)だからこそ自分たちの警官の制服への欲情のダシとして、称揚していたのです。
 一方、山下が自らの作を「フェミニズムに適った作」と称しているのも印象的です。
 彼はまた、抗議してきた相手を「フェミニズム団体もどき」と称してもいます。まるで、表現の自由クラスタが「ヤツらは偽のフェミだ、真のフェミは善きものだ!!」と泣き叫び続け――そしてとうとう、オタクの支持を失ったように。
 もうおわかりでしょう。
 宮台がフェミニストの使途であることが雄弁に物語るように、彼らはフェミニストと仲よしのお友だちなのです。
 彼らにとってフェミはポルノの味方として認識されている。もちろんそんな馬鹿なことはないのですが、上野千鶴子師匠が結婚していたことからもわかるように、彼女らも若い日には学生運動のバリケードの隅っこでは表現の自由クラスタのグルと「共闘」していた過去があり、仲よしだった。
 だからフェミも、九〇年代のサブカルにおいては悪趣味・鬼畜文化に寄り添っていた。香山リカ師匠が「碧志摩メグは許せぬが、会田誠の女子高生を虐殺する表現は大勢への反逆()なのでおk」などとほざいていたことはあまりにも象徴的です。


 それが近年、左派がフェミ的な価値観の方を重要視するようになってきた。
 これには或いは、ぼくには窺い知れない大首領の深謀遠慮があるのかも知れませんが、ぼくの理解できる範囲内で想像するならば、やはり「フェミニズムの成果によって」若い女性の性的魅力を憎悪する女性が増えたから、フェミニズムが兵器として有効だとの判断がなされたからではないかと思います。
 サブカルはそろそろ歴史を修正し、こうした自分たちの過去を「実はオタクの仕業だったのだ」と言い出し、性表現と共にオタクを葬り去ろうとする。
「そんな無茶な」と思われるでしょうか?
 でもつい最近も、X上で小山田事件を批判していたサブカル陣営の方が、近いことを言っていました。彼は根本敬を舌鋒極めて批判しつつも、一体全体どういうわけか明らかに根本を擁護していたロマン優光については肯定的に語り、何より「オタクもまたサブカルのように残忍なものを好んでいたのだ」と強弁しだしたのです。彼には、本当にオタクの姿がそのようなものに見えてしまっているのでしょう。
 小山田事件での歴史修正ぶりを見れば、サブカルの卑劣なやり方はもう、明らかなのです。

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