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 さて、noteの進行度に追いつくための再録シリーズ。久し振りのレッドデータコンテンツ図鑑です。
 今回はずっと前から言っていた「タイムボカンシリーズ」について。
 また、先週、動画をうpしましたのでそちらもよろしく!



     *     *     *

 ――あのさ、思うんだけど今の若いヤツってドロンジョを「単に、フツーにいい女」と思ってんじゃね?

 はい、ここでみなさん共感の嵐。
 え? 全然共感しない?
 困りましたな。
 ほら、何かの広告ではブラックジャックと婚活してたじゃん。他にも転生もので主役の悪役令嬢を張ってるらしいですよ今は。
 キャラデザは何と天野喜孝御大。美麗でセクシーなキャラデザインです。
 声優は先日物故された小原乃梨子。のび太のイメージの強い方ですが、旧作『うる星』ではお雪さん、洋画ではブリジット・バルドーを持ち役とするなど、妖艶な美女も得意とする方です。
 だから、今の人は峰不二子的な位置のキャラだと思ってるかもと。

 ――と、まあ、タイムボカンシリーズについて書く書くと予告していたので、前々から以上のようなことを書き溜めていたのですよ。
 ところが上にもあるように小原氏が亡くなられ、それをきっかけにまさにぼくが上に書いた通りのことをおっしゃっている御仁が現れました。
 それも「若くてよく知らない」人ではなく、林譲治氏というSF作家さん。結構なお歳で、リアルタイム視聴者のはずなのですが。

 いや、まあ、一応、林氏の言うように、このキャラは「男を顎で使う女」の先駆けとは言えました。
 しかし「ドロンジョは色を使わない」ってのは明らかに違うでしょう(もっとも、これは林氏とは別な方の意見です)。彼女は常にセクシーな衣装に身をまとい、自分の女を十二分に利用していました。
 そんなわけで、「格好いい悪女」というキャラであるというのも一面の真実ではあります。
 が!!
 この人、それと同時に徹底的な道化でやられ役で負け犬のド雑魚なのですな。
 毎回ヌードを披露してたけど、それすら(お色気を狙っているとは言え、同時に)ギャグとして描かれてたんで、滑稽なんですな。
 というわけで、今回は小原乃梨子さん追悼の意味も含め、タイムボカンシリーズです。
 本シリーズについて今までも言及しつつ、なかなか採り挙げられませんでした。
 また、書きたい内容は以前から言っていることの繰り返し――つまり70年代後半、政治の季節が終わり、正義が曖昧化した「パロディ」の時代を迎えつつあった時期に登場した怪作――といった辺りなのですが……。
『アルベガス』、『レザリオン』はロートル作家がそうしたオタク的「パロディ」芸を真似ようとして失敗した、と評しました。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

 ところが『ゴレンジャー』、『ジャッカー』は(そのホンの数年前)、同じ脚本家によって書かれた、極めて先進的な「パロディ」的作品だったのです。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たち

 そしてまた本作は丁度『ゴレンジャー』と同じ時期に始まった作品。
 では果たして本作は、『ゴレンジャー』といかなる違いがあったのでしょうか……?

 ご存じない方も多いでしょうから、簡単にご説明します。
 ただ、前にも言ったように今から全話見直すといった時間や金銭を投じる余裕はないので、あくまでかつて見た(再放送を繰り返していたので、それでも結構見ていました)記憶で書かせていただきます。
 まず75年に始まったのが『タイムボカン』。
 少年少女がコミカルなメカに乗り込み大冒険。ところが悪の三人組が、少年少女の追い求める秘宝を奪おうと、妨害を繰り返す。
 以降、本作はシリーズ化し、後のシリーズでもこの基本ラインは大体、守られます。
 ただ、実のところこの『タイムボカン』そのものは「ちょっとコミカルなヒーローもの」といった感じで、そこまではっちゃけた作品でもなかったのですが、次回作『ヤッターマン』により、シリーズのカラーが決定されます。『タイムボカン』シリーズと銘打たれてはいるものの、実質的には『ヤッターマン』シリーズとも称するべき作品群がこれ以降、続くのです。
 では『タイムボカン』と『ヤッターマン』はどう違うのか。何しろキャラクターのシフト(少年少女の正義の味方に、三人組の小悪党は女ボス、頭脳派、肉体派の子分という布陣)も同じ、キャラデザも同じ。声優さんも続投するという徹底ぶりで、実質毎回同一人物が名前だけ変えて再登場していたようなものなのですが、それでも演出する側の意識のようなものが、『ヤッターマン』では根本的に変わっているのです。
 それは「正義の、ドラマツルギーの、徹底的な無化」であり、おそらくこれは『ボカン』ではそこまで徹底されてはいなかったのでは……と。
 これはまさに『ゴレン』の次回作『ジャッカー』のビッグワン編で戦いの戯画化がより徹底した形でなされるようになったことと、奇妙な合致を見せています。
 ヤッターマンは登場時、「ヤッターマンのいる限り、この世に悪は栄えない!」と格好よく名乗るのですが、そこに悪党であるドロンボーが冷ややかなツッコミを入れる――そういう感覚は、『ボカン』ではなかった気がします。そもそも名乗りがなかったんじゃないかなあ……。
 またヤッターマン1号2号はカップルで、戦闘時でもこの二人、身体が弾みで接触するなどすると「愛ちゃん好き」「私も」といちゃつき出す。「健全で明朗な正義の味方」というものを、スタッフは徹底的に馬鹿にしていたわけです(白黒時代から清廉な少年ヒーローを立て続けに演じた太田淑子さんがこの1号を演じているのが、また皮肉)。
 一番特異なのは、毎回展開されるストーリーです。時代劇などでもこの種の作品、ヒーローや悪以上に、「悪に翻弄される毎回のゲストである庶民」が重要な役割を担いますよね。
 ところがこれ、例えばですが以下のような具合。

 飲んだくれで妻子を蔑ろにしているオヤジ。ドロンボーに利用され、儲け話に手を出すも失敗。ヤッターマンの活躍によりそれがドロンボーの口八丁のデタラメと知り、妻子に泣いて詫びる。「俺が悪かった、これからは真面目に働くよ」。めでたしめでたし。


 ――以上の経緯を見守り、ヤッターマン自身も「よかった」などと喜ぶのですが……これらは全て茶番なのです! 劇中ではノーツッコミです。しかし見ている側はここにテンプレなドラマの空疎さを見て取り、笑ってしまうのです。

 ――「ノーツッコミ」って、それはお前、スタッフはマジメに感動させようとして作ってたんじゃないの?

 いや、そうじゃないんです。確かに、ひょっとすると理解できずに見ていた層もいるのかもしれませんが、明らかに、スタッフは茶番として描いているのです。
 それは上にも挙げたヒーローの演出もそうで、一応悪役が「格好つけんなよ!」とツッコむものの、全体としては正義側はあくまで正義として描かれ、悪役は否定されて終わる。それでも見ている側はその「正義の空疎さ」を感じ取ってしまうのです。

 これは同時に悪役の描かれ方を見ることで、より明快になるかもしれません。
『ボカン』における悪役ガイコッツ(これは彼らの操るメカの呼称とされることもありますが、同時にチーム名でもあるんじゃないかなあ……)も、ドジな小悪党であり、憎めない悪役、それが、大の大人にも関わらず毎回少年少女のヒーローに敗北を喫するところがギャグになっていました。
 ところが『ヤッターマン』では悪役チーム、ドロンボーの上に立つ正体不明の首領ドクロベエが配され、三人は「しがない下っ端」といった性質を持つに至ります(さらに後期作になると会社員という設定を配されることもあり、これは『ガンダム』がそうであるように当シリーズも三人組に「サラリーマンの悲哀」を見て取る「リアル系」へと変貌していったということなのですが、その辺りの作品は、個人的には今一です)。
 ともあれ、ここら辺りから「大人の悲哀」こそが少年少女のヒーローの照り返しを受けて強調されることとなり、それこそが作品の売りになっていくのです。
 頭脳派のボヤッキーは折に触れ「(今は都会で悪党に落ちぶれているが)故郷の会津若松には恋人を残してきている」と嘆きますし、何より女ボスのドロンジョはとにもかくにも結婚ネタでいじられます。例えば、ヤッターマンにやられた時のボヤッキーとのかけあい。

「これはお前の作戦ミスだよ!」
「あたしが作戦ミスならあんたオールドミス」


 えぇと、ひょっとすると「オールドミス」がわからない方もいるかもしれませんが、ようするに「嫁のもらい手がなく、ババアとなっても独身の女」ってことですね。
 他にも後期作(『ゼンダマン』辺り……?)でも悪役のテーマで「結婚したい!」「相手がいない!」といったかけあいがありました。
 本シリーズの(小原氏演ずる)女ボスは確かに美女として描かれ、『ボカン』の女ボスであるマージョは企画書で明確に「ウーマンリブの信奉者」と書かれており、男たちを顎で使う女傑です。
 しかしそんな女性だからこそ結婚ネタ、年齢ネタ、即ち女としての欠落が嗤われていたわけだし、同時にからかわれて恥じらうところが大いに可愛げとなっていたわけです。
 このオールドミスいじり、昭和の時点で急速にタブー化していき、何だったか、『名作劇場』の後期作でオールドミスキャラが出てきた時、「今時ありなのか」と驚いた記憶があります。
 もちろん、現代社会においては、「オールドミス」という言葉自体がわからないのではと書いた通り、それはもうタブーと化して久しい。
 林譲治氏の言もそれと同様、ポリコレに対応してドロンジョの一面だけを評価する、バイアスのある見方です。
 しかし果たして、それは女性にとって幸福なのでしょうか。
 水着撮影会が中止になることで女性モデルの仕事が奪われるのと同様に、(本当にオールドミスとからかわれ、傷つく女性がいる一方)それが一律に禁じられることは、単に女性が「可愛げ」を発揮するシーンを奪われる、「女性の仕事を奪う」ことでしかないでしょう。
 繰り返す通り、『うる星』は「男性性の否定」をテーマとする作品と言っていい(余談ですが、同時期にアニメ化された『じゃりン子チエ』のテーマもまたそれであり、何とアニメの音楽担当が同一人物なのですな)。
 面堂終太郎は完全無欠の二枚目がギャグを演じるというパターンの先駆けと言えました。いえ、縷々述べてきたようにヤッターマン1号も近いキャラなのですが、文武両道、金持ち、二枚目とスペックを積み上げた挙げ句ギャグで落とすというのはあまり先例はないはずで、ともあれここでは男性性が徹底的に茶化されている。
 ところが本シリーズではそれよりも数年前に、女性性を茶化していたわけです。基本、女性性とは神聖にして犯すべからずなもののはずで、その意味でこのキャラはかなりエッジなものなのですが、やはり悪役だからこそ、そうした変化球も許されたのでしょう。

 ……もう一つ、ちょっと(ここでぼくが書かないと、永久に忘れ去られるであろうことを)書いておきましょう。
 先に本シリーズを『ゴレンジャー』と同時期であると述べました。
 そして『ゴレン』はご存じの方も多いでしょうが、紅一点のモモレンジャーを登場させた、変身ヒーローものの中でも(先例はあれ)女性の社会進出の先駆け、といえる作品でした。ここでしかしモモレンジャーは意外にプロフェッショナル然としており、あまり「私」は出さない(もっともこれは『ゴレン』そのものの作風でもあります)。
 ところがやはり同年に『コンドールマン』という変身ヒーロー作品が放映されていました。川内康範原作で、主人公はゴリゴリに堅い(そう、まさに『ヤッターマン』でからかわれるような)当時としても古くさいキャラだったのですが、しかし敵の怪人であるレッドバットンというのが先進的だったのです。

画像

 ご覧の通り、当時としては図抜けて可愛らしい、オーパーツとも言えるような萌え系の怪人。彼女があくまで悪の組織の作戦として、義賊のように装うという話があるのですが、そこで彼女は使命を差し置いて、義賊として民衆にちやほやされる快感に目覚めてしまうのです。
 言うならば、彼女は悪役でありながら「悪の正義」にすら忠誠を誓わない、「ドキンちゃんの十年前に登場したドキンちゃん」だったのです。
 そして、これは実のところ、ドロンジョにもあった特徴なのです。
 多分当時観てたみなさんもお忘れだと思うのですが、ドロンジョ、ガンちゃんが好きなのです。
「ガンちゃん」というのはヤッターマン1号、主役です。上に書いたように1号には2号のアイちゃんという彼女がいるのですが、その正義の味方に、ドロンジョは横恋慕しているのです。年齢差、十五くらいあると思いますけどね。
 最終回ではドロンジョがガンちゃんへの愛情から悪党人生に嫌気が差し、そのためドロンボーが瓦解する様が描かれます。
 即ち、彼女らは悪のサークルのクラッシャーであり、女というものが、悪なり正義なりといった理念を超越したところで動いている存在である、ということが、ここでは語られているのです。これは丁度『キカイダー』の人魚姫ロボットの時にも申し上げたことですね。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家

(この種のキャラの元祖はテレビ版『バットマン』のキャットウーマンがバットマンを愛するようになる……という辺りでしょうか)

 八十年代、「物語の喪失」と共に、ヒーローの正義は形骸化した。ところが「悪の正義」すらもが実のところ形骸化していることを、ドロンジョは描いて見せた。
 そして九十年代。専ら女性が「悪」として描かれる時代が現出した。いや、これはちょっとオーバーに言いましたが、以前『スパロボV』について語った時に書きましたよね。『マイトガイン』の明らかにキャットウーマンを意識した女賊カトリーヌ・ヴィトン、『GS美神』のピカレスク的ヒロイン美神さん、他にはタイムボカンシリーズ的なテイストの『ゲンジ通信あげだま』の男子小学生が正義のヒーロー、そのクラスメイトで小学生離れしたプロポーションを持つ女子、九鬼麗が悪玉であった図式などが思い浮かびます。

 この時期に、「世界征服」といった明確なヴィジョンを持つ「悪の正義」は失われていた。
 そこで(ある意味、しょうことなしに)「女のエゴ」が「悪」そのものとなった。
 ドロンジョは実のところその「どうしようもなさ」(何しろ、最後に組織を瓦解させてしまう)までをも、描破していた。

 そして観ていたはずの人たちもそれから何一つ読み取らず、いまだ「女に顎で使われたい」とか言っているのでした。
 めでたしめでたし。