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 上野千鶴子師匠の再録がまだまだ控えているんですが、今回は新規記事です。
 それと、前々回の再録(「上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件」)が削除されてしまいました。恐らく、パイオツ画像を無修正でうpしてしまったためと思われます。
 ともあれ、明日上げ直しますので、未読の方はチェックをお願いします!
 それと、『WiLL Online』様で新しい記事が掲載されています。
 どうぞ、応援をよろしくお願いします!!

 

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 世代を超え、老若男女に絶大な人気を誇る覇権アニメ、『うる星やつら』。
 リメイク版第一期は終了しましたが、後半で「消・え・な・いルージュマジック」が放映され、腐女子界隈が騒然となったことは記憶に新しいかと思います。

 ――すまん、俺今、テキトー言ったわ。
 別に知らんけど、多分騒然とはなってないと思う。なってたぞというお友だちはコメント欄で教えてね。
 いえ、何のことはありません。同話にはラムちゃんの作った、「惹かれあうルージュ」というアイテムが登場します。ラムがそのルージュを引き、あたるの唇にも塗ると、お互いはキスをしてしまう――というわけで、しかし当然あたるは塗ることを拒否。面堂もラムとのキスを狙ってルージュを引いたものの、あろうことかラムにルージュを塗られたあたるとキスしてしまう、というお話。
 もちろんキスシーンはギャグとして描かれるわけですが、そのシーンに腐女子は大騒ぎ……したのかなあ。
 何とはなしにあんまり騒がなかったんじゃないかとぼくが思う理由は、高橋留美子という人物が徹底的にヘテロセクシズムの人だから、なのです。
 主にBLにおいて『ジャンプ』作品が餌食にされがちなのは、それが「ホモソーシャル」の世界だから。「男が男に惚れる」という状況が普通に描かれ、もちろんそこに性的要素は一切ないのだけれども、その純粋さに、腐女子は惹かれるのです。
 翻って『うる星』は徹底してニヒリズムの作品であり、ことに男性原理の否定そのものがテーマといっていい作品でした。以前にも書きましたが、80年代は今までの「正義」が完全に否定され、相対化された時代でした。だから本作においては敵に「男同士正々堂々と勝負だ!」と宣言された瞬間、主人公側が敵を集団で背後から不意打ちする――といったギャグが盛んに描かれました。
 そうした、少なくとも当初はかなりドライなギャグ作品であったものが、ラムちゃん人気から本作はラブコメへとシフト。中期からは必然的に「恋愛」が「正義」に変わる絶対の価値観として描かれるようになったわけです。そうした作品のパラダイムシフトは作者にとっては計算外だったでしょうが、男女関係の描かれ方、それ自体には当然、作者の価値観が大きく反映されているはずです。
 だから、あたると面堂の間には一切、精神的つながりが描かれない。これは全作を通して恐らく徹底されていたはずです。何故かとなれば、それは二人が恋敵だから、「そうでなければならない」というのが作者の論理だったからです。
 ここにセジウィックの「三角関係の物語の、その恋敵であるはずの男性同士にこそ心のつながりがある」とするホモソーシャル論は無残にも瓦解するのです。
 考えれば後期以降は希薄になるものの、ラムとランは「恋敵で親友」という描かれ方がなされており、やはりこれは高橋が当時としては驚くほど男性心理を熟知した作家と言われてはいたけれども、実際にはそこまで知識も関心もなかったからではと思えます(もっとも、ラムとしのぶの間に驚くほど精神的交流がないことを考えれば、高橋はシスターフッドの作家……というわけでもないでしょうが)。

 さて、そんな『うる星』の中期には、極めて印象的な新キャラが登場します。そう、藤波竜之介ですね。高橋自身がこのキャラこそが本作の長期連載を可能にしたと評した重要なキャラですが、実のところこの子って自分自身のジェンダー(或いは父子関係)にこだわるばかりで、恋愛には絡まないという、考えてみれば妙なポジションのキャラなんですね。
 しかし、登場初期にはしのぶと「フラグ」めいた描写があったことも、今回の再アニメ化で思い出すこととなりました。
 即ち本作の、高橋留美子の論理では「ホモは悪だが、レズは正義」なのです。
 いえ、正義/悪という概念そのものが、恐らく本作にはないことでしょうが、要するにホモは完全に概念外の、ただただおぞましい何かであるというのが本作の論理と言えます。だからこそ先の面堂とあたるのキスは、純然たるグロシーンとして、効果的なギャグとなる。
 一方、しのぶは竜之介に迫られた(と勘違いして)妙にドキドキしています。本作の当初はラム→あたる→しのぶ→面堂→ラムの四角関係(ラム→あたる→ラン→レイ→ラムとの四角関係もあったけれども、今一顕在しないままフェードアウトした感じです)が設定されていました。しかしこの時期はその路線が頭打ちとなりつつあり、新展開が求められ、恐らく当初はこの百合的な関係性も模索されていた。しかしあまり顕在化しないままに終わった感じです。しかしいずれにせよ、ここにはぼくが時々持ち出すラカンの「異性愛とは女に欲情することである」というテーゼがはっきりと立ち現れています。女の子という輝かしく晴れがましい存在へと、誰もが心を奪われる。それは女の子同士であっても変わらない。しかし男の子は自らの中にそうした輝かしく晴れがましい「エロス」を持っていない。よって男の子はいかなる犠牲を払おうと女の子という賞品をゲットしようとする。女の子は、それだけの価値があるのだから。
 逆に言えば、レズは「女の子に欲情すること」である以上、「ヘテロセクシャルの一種」とも言い得るわけです。
 それが高橋留美子の世界観であり、まあ、80年代の世界観でもあり、そしていまだ継続中の世界観でもあります。
 だから竜之介は「ついつい習慣で、男らしく振る舞ってしまう」ことに苦悩はしても、自分自身が女であることに、全く迷いはない。おそらく作者にとって、「男性ジェンダー」というのは全く想像の埒外であり、関心の外にあるものでしかなかったはずです。
「俺は女だ!」が竜之介の口癖であるのは『俺は男だ』(という往年の青春ドラマ)のパロディであり、先に書いた作品のテーマが「男性性の否定」そのものであることを表していますが、同時に竜之介がジェンダーに揺らぐ存在では全くないことを、示しています。
 同時にだからこそ、あたるは平然と竜之介を口説きます。竜之介がいかに男の子っぽくあろうと、あたるにとっては単に美少女として認識され、そこに迷いはない。一方、かなり後期に、言わば竜之介のお相手として「渚」という「男の娘」が登場してきます。彼は登場した当初、完全に美少女として演出され、しかし途中で「男であった」と判明。その場にずっと同席していたあたるも面堂も、「なるほど、あの娘に食指が動かなかったのが不思議だったが、道理で」と納得します。
 そう、男の正体を現したとたん、渚はその描かれ方も妙に険しい表情で肉体も曲線が少なく描かれ出し、いかにも男然としてくる。そこに、「あんな可愛いなら男の子でもいい!」といった反応は微塵も見られない。その意味で上には「男の娘」と記述したものの、彼は恐らく「男の娘」ではない。そんな感覚(男を、恐れ多くももったいなくも女の子という晴れがましい存在に比肩し得るものとして描くことなど)は高橋留美子にとって想像の埒外だったのです。

 これはまた、80年代のオタクの「ジェンダー観」でもありました。
 いつも言うように、80年代は「女の時代」。フェミニズムバブルが起きるのは、かなり末期頃のことではありますが、それ以前から(何なら70年代から)「女が強い、女が強い」と繰り返されていたのです。
 オタク男子が当時描いていた、ある意味『うる星』エピゴーネンとも呼ぶべき漫画では「幼女」が何故か強く大活躍、次々と「男」をぶち殺していく。しかしその「幼女」はそのことに一切の屈託がなく、ある種のピュアさ、幼児性を保ったままでいる。「男」はそれこそ『うる星』の仏滅高校総番のような、人間とも思えない化け物めいた形で描かれる……以上はあくまで例えばですが、要するにそんな感じの作品が、当時は多かったのです。
 ここには「戦い」の無為さ(学生運動が敗北したことが象徴する、イデオロギー、正義の無価値化)と共に、徹底した「男性」そのものの無価値化が描かれていたのです。
 オタク文化の勃興期がこの頃であること自体、「男が弱くなった」ことと無関係ではありませんが、いつも言うように「弱い男の子」であるオタクは一般的な男性と比べても、男性アイデンティティを構築することが困難であった。そんなわけで自らの創作の中ですら男性としてのアイデンティティを表現することができなかったわけです。
 当時の「薄い本」では「触手やメカが美少女を襲う」というモチーフが流行したのもそれが理由だし、上に挙げた例はそこから「アダルト要素」を抜いたものなんですね。

 もっとも、『らんま』辺りになるとその辺もちょっと変わってきます。「男の子が女の子に変身して、お色気シーンが描かれる」というのがこちらのキモでした(編集者にお色気描写を迫られ、しかし抵抗があったがため「男の子のお色気シーン」を売りとする漫画が生まれた……と何かで読んだような気もしますが、記憶違いかも知れません)。
 もっとも、女らんまはバンバン脱ぐ完全なお色気要員として描かれるものの、そこで乱馬がだんだんジェンダーも女に寄ってくるといった描写は皆無。その意味で本作にジェンダーの揺らぎは微塵も見られないけれども、同時に「しかし、にもかかわらず、身体が女というだけでお色気が成り立ち得る」という状況は、上の説が正しいならば作者の思惑と離れたところから生まれた偶発的なものであり、描いていて高橋も結構、自分自身で驚きと発見を感じていたのではないか……といった想像もしたくなります。
 そうなると作者自身のジェンダー観にも変化が生まれるのか、それとも単に時代の流れか、本作では乱馬と良牙が「熱烈に」仲直りしているシーンを見たかすみとなびきが「友だち以上って感じ」と腐女子的な評し方をするシーンがあり、「あのヘテロセクシズムの作家が」と感慨を受けました。
 実は『劇場版セーラームーンR』でも美少女戦士たちがBL話に花を咲かせるシーンがあり、「もはや美少女戦士も高橋留美子もBLに萌える時代なのか」と感じ入ったものです。
(これも端的には「ホモをレズがやっつける」という、ある意味『うる星』的な物語ではありました)
 この辺りはもう、今回の「高橋留美子論」から離れますが、ともあれBLの隆盛は、「女性のブス化」と密接に関わっています。
 言わば『うる星』の時代は男の子だけがジェンダーの揺らぎを覚えていた(女の子はずっと晴れがましい存在のままであった)のが、フェミニズムの成果で、女の子もジェンダーの揺らぎを覚えるようになった。萌えキャラが男の子のその緊急避難先であるのと同様に、女の子もBLへの撤退を余儀なくされた。
 それが、90年代であったのだと思います。