さて、前回の続きです。
初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
再録記事ですが、話の発端は北田暁大師匠が『社会にとって趣味とは何か』において、山岡重行氏の『腐女子の心理学』を攻撃したことです。
北田師匠はオタク男子を保守的と蔑む一方で腐女子は先進的なフェミニストだとぶち上げますが、それは極めて不誠実なデータの曲解によってなされたもの。
山岡氏はそれに怒り、続く『腐女子の心理学2』においてそこを痛烈に批判しました。
ただ、本稿においてぼくが山岡氏に批判的なのは、彼もまたフェミ的なパラダイムを深く内面化しているから。
ただ、にもかかわらず「腐女子をフェミとするのは勇み足だ」とする山岡氏の冷静さに、ぼくは全面的に同意します。
それはいつも言うように、ぼくたちオタクが常に「自分をオタクだと思っている一般リベ」にボス面をされているのと同様、腐女子もまた「自分を腐女子だと思っている一般フェミ」にボス面をされている被害者であると考えるからです。
それについては次回以降も考えていきたいとは思っていますが、今回はこんなところで、再録記事の方を――。
* * *
前回は本書の前半部分といいますか、主に質問紙による調査について述べた部分を中心にご紹介しました。
山岡師匠の論考は北田師匠の著作に比べ、遙かに冷静で豊富なデータを積み上げた上でなされていますが、とは言え、スタンス的には近いのではないか。北田師匠と山岡師匠は共に腐女子に恋い焦がれる恋敵であり、両者は単に右と左から腐女子の手を引っ張っていただけのところを、ぼくはイデオロギー闘争であると勘違いして、首を突っ込んでしまっただけのことではないか……そんな疑問を述べました。
そしてその疑念は本書後半の「総合考察」と題された第12章から、一気にターボがかかるのです。
何と228pでは悪名高い――スマン、考えると悪名高いのって俺の中でだけだったわ――「やおい論争」が持ち出されます。
これは単純にホモが「腐女子キメェ」というだけの他愛ないもの。
しかしあれだけ腐女子の味方として振る舞い続けてきた師匠のこと、颯爽たる反論を見せてくれる……と思いきや、師匠はホモに唱和し、腐女子を批判するのです!
ゲイを許容しているつもりなのに、自分が好むBLでは嫌悪している。これも腐女子のジレンマである。
(230p)
意味がわかりません。
そもそも、「BLとリアルなホモとは一切関係ない」という優れた指摘をしてきたのは師匠であるはずなのに*1。「BLはホモを嫌悪する表現である」というのもわけがわかりませんが、ホモが禁忌であるが故に純愛のダシになっていることを、そのように解釈しているようです。BLでホモの禁忌性が描かれることなど、近年では少なくなっていると思うのですが。
そう、師匠の腐女子への共感や誠意を疑うことはできません。ただ……考察に入るや師匠の所属する「闇の教団」の厳しい戒律が、師匠と腐女子の仲を裂いてしまうのです。
それは以下のような記述にも現れています。
前節で述べたように、男性に都合よく作られた性規範が、女性の性的娯楽享受の許容度を低く抑え込んできた。その男性中心の性規範は、女性作家が女性読者のために創ってきた性的娯楽であるBLにも組み込まれている。
(230p)
師匠が言うにはそれは「BLの二重の安全装置」に組み込まれているのだそうです。
それは一つには「BLがBLである限り、腐女子当人に実行不可能」というもの。
もう一つは「愛がなければ性行為をしてはいけない」という規範であるといいます。
女性にとっての実行不可能性と、愛の帰結としての性愛という二重の安全装置が組み込まれたBLは、女性が(男性に都合よく作られた)社会の性規範を逸脱することができないように造られた、安全なポルノグラフィである。
(230p)
要するに、BLとは「女性にふしだらであって欲しくないという男の願いが生んだもの(実行不可能だから)」ということのようですが、むしろ男は女が「男同士に萌える」ことなど望まないでしょう。
今まで稲田豊史師匠の『ドラえもん』、『セーラームーン』評に、「男性学」とやらに対し、ぼくたちは同じ気分を味わってきました*2。これらの著者たちは必死でオタクの、弱者男性の味方であると振る舞おうとしているが、スイッチが入ると「大首領様」の命令に逆らえなくなり、オタク文化を、弱者男性を叩き出すという、大変に奇妙な人々でした。
そしてこの12章は実に奇怪なオチを迎えます。上の後、女性研究者である堀あきこ師匠の「BLは男同士の恋愛を描くことで対等な関係性を描写することを試みた云々(大意)」という言葉が引用されます。もちろんこれは上野千鶴子師匠が三十年ほど前に言っていた古拙なロジックであり、「責め/受け」の概念がそれを無効化した……ということはぼくが何度か指摘しています*3。
が、ここでは年長者や権力者を「受け」とすることで、権力構造をずらすことができるのだ、といった論法で、BLが権力構造から自由である、との主張がなされているようです。ぼくが知る限り、BLは権力者が弱者を責めるものが大多数だと思うのですが。
そもそも、BLは男同士なのだから(実際には女性たちは「受け」へと感情移入しているのですが、この種の評論ではそうしたことを認めないものですし、山岡師匠もまたそうなのだから)権力構造がどうのこうの言われたって、それは男女の性規範とは関係のないもののはずです。
しかしいずれにせよ、この言説は山岡師匠の「BLは男性に都合よく作られた」論とは噛みあいません。では、ここから堀師匠への批判が展開されるのかと思いきや、特に何も言わないままに章が終わっています。
*1 本書30pでは学生や元学生である腐女子からの聞き取り調査を元に、「男性同性愛への興味」から腐女子になった者はいない、オタクコンテンツに登場するキャラへの興味が先行し、BLに至るとしていますし、第8章においても再三、「腐女子が好むのは現実のホモではない(大意)」と強調され、166pでは腐女子がホモビデオを見ることも、腐女子向けの実写作品もほとんどないことも指摘されています。
*2『ドラえもん』、『セーラームーン』の一連のトンデモ評論、「男性学」者のトンデモ本については以下を参照。
「ドラがたり」
「ドラがたり とよ史とフェミニン兵団」
「ドラがたり とよ史とチンの騎士」
「セーラームーン世代の社会論」
「セーラームーン世代の社会論Crystal」
「秋だ一番! 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)」
*3「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)」
チンプンカンプンになりながらページをめくると、最終章である第13章「腐女子とオタクの未来に向けて」が控えています。
その第1節は「少女マンガの呪い」。
驚いたことに師匠は古典的少女マンガが、主人公の少女が少年から愛されることで自らに価値を見いだす構造を持っていることを(藤本由香里師匠の著作から引用して)指摘、それが「男性支配」であると説くのです。
すごい!!
いえ、つまりこれは山岡師匠が、大変に正直な人物であることを表しています。少女漫画評論というものは今まで、少女漫画の上に指摘されたような構造とフェミニズムとの矛盾をスルーして、何とかその両方に対し、諸手を挙げて絶賛せねばならないというムリゲーを強いられてきました。
山岡師匠はそうした(論者たちの独り相撲によるケガで生じた)レッドオーシャンへと、のこのこと入っていった一般人です。裸の王様を見て、「あれ、裸?」と言っちゃった少年です。モンダイは、この少年もまた裸でおり、それについて自覚がないのでは、との疑問が湧くことですが……。
山岡師匠は藤本師匠の
少女たちは“性”を自らの体から切り離し、少年の体に仮託することで、“性”を自由に操ることに成功した。
(235p。あくまで藤本師匠の著作からの引用の孫引きです)
といった論法に反論するかのように、「しかし愛という価値から逃れ得ていないではないか」と指摘します。
それは、正しい。大変論理的です。
「BLは従来の男女のジェンダー規範、セクシュアリティ規範をなぞった、それに対し何ら脅威をもたらさない表現である。であるから、フェミニズム的に解釈すると、BLが女性差別男性支配の表現であるとするのは正しい。そう解釈する以外に、道はない」。
師匠の主張をまとめれば、そういうことになるはずです。
しかし、何しろ腐女子たちは同人誌を描いてまでBLを欲するのですから(儲かるのは一部で、彼女らのほとんどは赤字でしょう)、「腐女子の存在こそが、フェミニズムが間違っていたということを何よりも雄弁に語っている」。
そのように論理は展開されなければならないはずです。
が、驚いたことにここから師匠は、精神的に安定していない腐女子群は少女漫画に親しみ、「少女マンガの呪い」を受けたのだろうとするのです!
腐女子の中の健康的な層は「少年漫画」を読んで育ったのだろうが、対人忌避の傾向など、問題を抱えた腐女子は恋愛強迫観念(恋愛しない人間には価値がない)を少女漫画によって植えつけられているのだと、師匠は(特に根拠なく)推測します!
すごい!!
疑問はいくつもありますが、まず「人に愛されることが第一義だ」との人間の根幹をなす欲望に基づく価値観が、そうそうフィクションの影響を受けるものでしょうか。同様に山岡師匠は(70年代の)少女漫画の編集者たちがほとんど男性であったと述べ、少女漫画そのものを男性の女性支配のツールであるかのごとく記述します。こうなると『レディース・コミックの女性学』*4と変わりません。
第2節は何と「少女マンガの呪いを解く方法」。
師匠はここで腐女子に対し、「世界とのつながりを取り戻そう」と説くのです。
「(恋人とつきあえば)少女マンガの呪いも解けていく(p244)」と師匠は語ります。
そもそもが、恋愛至上主義こそがけしからぬというのが当初の主張であったのに、何故「男子とつきあおう」になるのかが今一わかりませんが、それに対する説明は、本書の中にはありません。
「オタク男子とつきあえ」というのは「恋愛至上主義だけが悪で、現実の恋愛を知ればそうした観念論に振り回されることもなくなる」程度に理解すればいいのかも知れません。しかしそれでは「この世のジェンダー規範(恋愛もまた、その一環であることは自明です)は男たちが自分たちに都合よく作り出したものだ」という大前提が崩れてしまう。いずれにせよ矛盾しているのです。
*4 レディース・コミックは女性が結婚など、女性ジェンダーの旨味を十全に味わうメディアであり、フェミニストにとっては自分たちの主張の矛盾を暴露してしまう、極めて煙たい存在でした。『レディース・コミックの女性学』はレディコミブームの頃に出版された、フェミニストが「レディコミの編集者は男性だ、だから男性が自分たちの価値観を女性に押しつけているのだ!」と電波妄想を炸裂させるトンデモ本です。
「少女マンガの呪いを解く方法」には奇妙な項があります。
「萌えによるオタクの民主化」と題されたその項では、岡田斗司夫のオタク定義はエリーティズムだとの説が語られるのです。その根拠は岡田氏が『オタク学入門』などで「オタクになるには時間的、経済的、知的に極めて多くのエネルギーを投じなければならない(大意)」と語った、というだけのもの。それだけのことを取り出してエリーティズムだと決めつけるのって、どうなんでしょう。
以降も岡田氏はガイナックスを追放されたという『噂の真相』レベルの話や、彼にはコンテンツを造る創作者になれなかったコンプレックスがあるといった話が続き、しかし「萌え」こそがその岡田氏のフェイズを超え、オタクを民主化させた功労者であると語られます。しかし残念なことに「萌え」がどうして民主的なのかについては、言及がありません(いえ、恐らくライト層も取っつきやすい、程度のことを言っているのでしょうが)。
第一、この項の岡田氏批判が話の前後(「少女マンガの呪いを解く方法」)といかなる関わりがあるのかが、さっぱりわかりません。
岡田氏にクリエイターになれないコンプレックスがある、というのはネットでよく聞く風説です。ぼくが見る限り、これを流布させているのは左派寄りのオタク文化人の影響化にある人々です。山岡師匠の岡田評はこれと全く同じで、その影響を間違いなく受けています。
ぼくは岡田氏の主張を「オタク≒鍛えられた消費者」論と表現してきました。どちらかと言えばクリエイターというエリートを想定し、階級を造ろうとしているのは左派寄りのオタク文化人であり、それに異を唱えるのが岡田氏で、むしろオタク文化人が彼(や大塚英志氏)を煙たがるのは彼らがオタク界を民主化しようとしたことが理由、とも言って来ました。
もっとも、以上を裏読みすれば確かに「岡田はクリエイターに反感があるのだ」といった評も可能でしょう。しかし不思議なのはそうした主張をする連中は一体全体どうしたわけか、上にも書いた左派寄りのオタク文化人、つまり「別段、クリエイターじゃない人」がお好きなように見えることです。ブーメランという他はありません。以前にした、「サブカルはコンテンツを持たないが故にオタク業界の植民地化を企んでいる」との指摘と、これは全く同じですね*5。
そして残念なことですが、そうした人たちと同様、山岡師匠の腐女子への感情にこそ、ある種の傲慢さが見え隠れするのです。それは「耽美」という言葉に象徴されていると、ここまで来ればみなさんにもおわかりいただけるかと思います。
他にも本書の端々には「オタク趣味が高じて制作者サイドに移った者は、すでにオタクとは呼ばない。(139p)」、「(引用者註・スポーツや芸術と異なり)しかし、アニメ、マンガ、ゲームなどのオタク趣味に対する熱中は、基本的にオタクたちを成長させたり、向上させたりはしない。(207p)」と、オタクからするとひっくり返りそうな記述が見られます。本当に細かい荒探しではあるのですが、山岡師匠は本当にオタク文化をリスペクトしているのか……との疑問が拭えないのです。
つまり、師匠の「腐女子よ、現実の恋愛をせよ」はある種の正論ではある。
正論ではあるが、そのウエメセぶりがやはり、例の「キモオタがサーフィンをやるCM」のような無神経さを、どこかオタクを利用しようとしているイヤらしさを匂わせている。
それ以降、「多様な価値観を認めよう」的なことを滔々と書いて、本書は終わります。
あとがきの最後の最後のフレーズを、以下に引用してみましょう。
オタク諸君、腐女子諸君、現実とコネクトしよう。現実に一歩踏み出そう。その一歩から君の現実を変えていこう。君の現実を、君の人生を君自身の手に取り戻そう。君の人生を、君が楽しみながら生きていこう。夢の呪いに挑み、呪いを打ち破るのだ。
Don't Dream It Be It 夢を見るんじゃない、夢になるんだ!
(Rocky Horror Picture Show) (ロッキー・ホラー・ショー)
(251p)
余計なお世話です。
実のところ、本書の言い分はある意味、「腐女子」を「オタク」に置換すると聞き飽きた、いや、懐かしくて涙が出るようなものになります。
「オタクたちよ、アニメDVDを捨てて町へ出よ」と。
宮崎事件の頃、耳にタコができるほどに聞かされた話です。
それに対し、ぼくたちは「余計なお世話だ」と言ってきました。
ほとんどの腐女子もそれと同様に、「余計なお世話だ」と思うことでしょう。
もちろん、ウザいながら、「男の子と恋愛しよう」そのものは正論ではあると思います。
ここからは、ぼくがここしばらく強調している「悪の組織による、本田透の兵器利用」*6という方法論を、師匠が拒否した様が見て取れます。
本田透氏は「俺たちオタクは真の愛を求め、二次元の世界に旅立った」と主張しました。これは三次元に愛がないことからの、窮余の策。萌えとは、愛を得られないことを悟った男の描いた、理想の女性の絵でした。
「悪の組織」の作戦はそれを曲解し、「弱者男性どもは二次元の世界に安住し、それで幸福だと言っているぞ」と主張し、ぼくたちへの援助物資を横からかすめ取るところにありました。
北田暁大師匠のしたことは、その方法論を腐女子にも適用させたものと言えます。
ツンデレ腐女子ちゃんが「三次元の男のことなんか興味ないんだから、ヘンな勘違いしないでよね!」と言ったのに乗じ、北田師匠は「彼女らは我が組織の目的(愛という概念の否定)のために生命を懸けてくれるのだ」と思い込み、腐女子たちを組織の兵士にしようとしました。
しかし……山岡師匠は改造手術の途中で、腐女子があまりにも哀れになり、脳改造直前で「男の子と恋愛をしよう」とアドバイスをして、腐女子を逃がしてあげた……本書はその様子の実況中継だったように思えます。
これはまた、時々指摘する、「フェミニズムの密教」を受け容れられなかった者の末路、と言えるかも知れません。「愛という概念を根源的に否定する」ことこそがフェミニズムの真の目的である。が、あまりにも反社会的なために普段はそれを隠している。それ故、「我こそはフェミニズムの真の理解者なり」と豪語して憚らないリベラル君たちはこの密教について全くの無知である*7。
山岡師匠はきっと、入信テストの土壇場になってフェミの密教に触れ、及び腰になった。本書はその様子の実況中継でもあったのではないでしょうか。
だからこそ悪の組織の大幹部である北田師匠は、怒りを露わにしました。山岡師匠は肝心なところで組織を裏切ったのですから。
では、山岡師匠は最後の最後で善に目覚め、仮面ライダーの仲間になったライダーマンなのでしょうか……?
師匠の腐女子に対する視線は常に優しいものであり、何とかその理解者たらんとする意志に満ちたものです。そうした師匠の誠意については疑う余地はありませんが、それ自体は恐らく北田師匠も(少なくとも本人の主観の中では)同じでしょうし、北田師匠を見ればそうした心理が容易に「弱者、マイノリティと目される人物を自分の政治の道具にする」危険性をはらむことも伺い知れましょう。
山岡師匠もまた北田師匠同様にその暗黒面に堕ちかけた。
しかし、師匠は「闇の組織」の戒律を最後の最後で破ってしまった。そして、組織のアジトを脱出しようとして、地雷原を正面突破してしまった。
そういうことだったのではないでしょうか。
*5「間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに」
「間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに(その2)」。この書もまた、岡田氏を罵り倒しつつ、その根拠を一切述べないというトンデモ本でした。
*6「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」
*7「千葉市の男性保育士問題」