「表現の自由クラスタ」対「腐フェミ」のバトルが勃発しています。
BLへの規制が強化されつつあり(この辺りの事情については、今一よく知らんのですが)腐女子側が「どうした表現の自由クラスタ、BLを守れ、それがお前らの好む表現も守るということだ!」とぬけぬけと言い出したと。
何しろ今まで腐女子側は(ヘテロセクシャル向けの)ポルノ表現を嫌っていた側だったのだから、どの口が、という気持ちはわかります。
ここで例えば小山晃弘さんなども「腐女子≒フェミ」はほぼ間違いない、と言っているのですが……。
深掘りはまた次回以降したいのですが、ぼくは以前、北田暁大師匠の『社会にとって趣味とは何か』で北田師匠が「腐女子はフェミニストだ!」と主張していることを指摘、ずっと批判してきました。
そして今回再掲する『腐女子の心理学』では心理学者である山岡重行氏が、やはりその北田師匠の主張に反論しています。
山岡氏も左派寄りの方で、フェミ的な物言いをされている箇所もあり、ぼくの筆致もかなり同氏に攻撃的ですが、しかし北田師匠の研究が極めて恣意的なものであると指摘した点については、全面的に同意します。
ということで「腐女子≒フェミ」説に対してはもう少々、慎重であるべきではないか。
次回以降も、そうした私見を交えて再録したいと思います。
では、そういうことで……。
* * *
ここしばらく、ずっと北田暁大師匠の『社会にとって趣味とは何か』について見てきました*1。
数回に渡り、M1さんのレビューやコメントも採録しましたが、それによって北田師匠が腐女子像を自分たちの政治的要請によってねじ曲げ、更に自らのそうした意図と相対する著作である『腐女子の心理学』に攻撃を加えていたことが、より明らかになったように思います。
腐女子に対し、「男無用のフェミニズムの闘士」であってほしいと強く願う北田師匠にしてみれば、腐女子に対して「オタク男子とつきあえよ」と説く『腐女子の心理学』が許せなかったのです。「ボクの彼女さんになるはずの腐女子タンに手を出すな!!」と。そんなわけで、ぼくは件の『腐女子の心理学』について、「全面賛成ではないものの、北田師匠のわけのわからないリクツによって攻撃を受けた可哀想な書」といった感じで評していました。
が、それは北田師匠の著作だけを読んでの、あくまで北田師匠のバイアスのかかった批評を手がかりにしたレビューでしかなかったわけです。
ならば実際にこちらの方も読んでおこう……と思い立ったのですが。
えぇ~と、そういうわけで今回は山岡重行師匠の『腐女子の心理学』についてのレビューを書かせていただきます――あぁ、前回は「山岡氏」だったのに「師匠」って言っちゃってるよ!
すみません、そういうわけでM1さんがご覧になったらあまり愉快ではないレビューになるかも知れませんが……。
*1 北田師匠の著作については
「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』」
「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)」
を参照。
M1さんのレビュー、レビューへのコメント、またM1さんの本書へのレビューはそれぞれ
「この本に腐女子を語る資格なし 最終版――『社会にとって趣味とは何か』レビュー」
「『社会にとって趣味とは何か』コメント欄」
「社会学者の地雷原を正面突破する研究書!――『腐女子の心理学』レビュー」
を参照。
まず、最初に言っておきますと山岡師匠は長年に渡り、質問紙で腐女子についての調査を行っています。言っては悪いけれども、別な調査の使い回しで腐女子を語ろうとした北田師匠とは、最初から勝負になっていません。
山岡師匠は「オタク度尺度」「腐女子度尺度」を設定、調査対象の学生たちを「一般群」「オタク群」「腐女子群」「耽美群」の四群に分けます。「オタク尺度も腐女子尺度も低い」のが一般、「オタク尺度が高く腐女子尺度が低い」のがオタク、「両方とも高い」のが腐女子というわけです。「耽美群」は「オタク尺度は低く、腐女子尺度が高い」人たちですが、普通に考えればわかるようにそうした層はごく少数で毎回、「分析から除外する」とされています。
さて……ところが、ここで大きな問題があります。
この調査、何と男女の区別がほとんどなされていません。
「オタク群」にはオタク男子と腐女子要素のないオタク女子が混在していると想像でき、それをごっちゃにしたまま話が進んでいきます。
「美少年キャラが好きである」の得点が4以上だったのは、腐女子群では52.8%に対して、オタク群では28.2%だった。
(33-34p)
などと書かれているのですが、「当たり前やろ」という感じです(「腐女子群」の中にも腐男子と思しき男性が含まれるようですが、ほぼ無視していい数字のようです)。
第3章「オタクや腐女子の外見は「残念」なのか?」では調査対象のファッションイメージを調べるため、ギャル系、ゴスロリ系などと共にオタク系のファッションを写真で提示し、感想を選ばせるという調査が行われています*2。が、ここでも調査対象は男女混合。女子には「自分がするファッションに近い/遠い」ものを、男子には「親しみを感じる/感じないファッション」を選ばせるという手法を採っており、「何じゃそりゃ」としか言いようがありません。せめてこの調査だけでも男女を分けるべきでは……いや、全てにおいて分けるのが当たり前だと思うのですが……。
申し訳ないですが、この時点でぼくは「四コマ漫画のオチ」のごとくひっくり返ってしまいました。何というか、いくら何でも、それはちょっとないと思います。本稿もこれをオチにして終わってもいいくらいなのですが……。
*2 しかし、「オタク系」などというファッションは存在しないし(何しろ山岡師匠自身がそう述べている!)せめて、そのファッションの写真を本の方にも載せてくれないと、読む側は何とも判断しがたいと思うのですが。
もちろん、本書は「ちゃんと腐女子を調査するという目的意識を持った調査」を行っている時点で、北田師匠の著作よりは格段に優れていると思います。
しかし、では、山岡師匠が「政治的意図のない、フラットな意識で調査」しているかとなると、そこは疑問です。M1さんに対して心苦しいですが、実のところ、本書を読んでいてぼくは師匠に「結局はジェンダー論かよ」と言いたくなってしまったのです。
それは例えば、以下のような論調が象徴しています。
アダルトビデオなどのポルノグラフィは、ほとんどが男性向けに製造された製品である。つまり男性は、女性より性を娯楽として楽しむことが許容されているのである。
(中略)
しかし女性向けに性的サービスを提供する風俗店は、繁華街を歩いていても目にすることはない。
(101-102p)
こうしたことが腐女子をして、自らを「性的少数者」であると位置づけていることの原因であるぞ、というわけです*3。他の箇所でも
人前での男性の猥談は、バカで下品な男たちという評価を招く。しかし人前での女性の猥談は異常者という評価を招いてしまうのである。
(51p)
と書かれているのですが、その直前で
公衆の面前で性的な話をする者は逸脱者とみなされる。
(51p)
と言っているのだから、わけがわかりません。上の「逸脱者とみなされる」は文脈からするに、男女問わず、であるはずです。恐らく、「公衆の面前」と「人前」に微妙なニュアンスの違いを込めているのでしょうが……。
つまりフェミニズム的な「女性は抑圧されている」論を、山岡師匠もまた内面化しているのです。
が、これは極めておかしいと言わざるを得ない。女性の猥談に対する許容度が低いのは、「女性が守られているから」です。男性への性被害と女性への性被害が共に同じ重さで憤られる世界が来れば、女性と男性の猥談も、同じ重みを持って迎えられることでしょう。
そもそもBLが生まれたこと自体が「抑圧などなかった」証拠でもあるし、レディースコミックだって生まれて三十年くらい経っているのだから、今更という他ありません(本書、最後までレディースコミックという言葉すら出て来なかったんじゃないかなあ……)。
BLやレディースコミックは抑圧を打ち破った革新的表現である、と解釈する方法もありますが、そうなると(後述される)「BLは男性社会の価値を温存している」との説との整合性が取れなくなる。どっちにせよ矛盾しているのです。
また、ちょっと上級者向けの話ですが、そもそも女向けのポルノなんて、更に以前から存在しています。ワイドショーや女性週刊誌の芸能人スキャンダルがそれですね。そのことは「腐女子は関係性に萌える」と繰り返されている本書の論理を演繹すれば実のところ、わかることなのです。事実、腐女子が実に熱心に同人誌を発行し、即売会に出るのは、「今週のアニメの○○クンと××クンの怪しいシーン(大体は共に敵と戦ったとか、そんなの)」についての妄想を描き、仲間たちと共有したいからであって、本質はワイドショーなんですね。
そう、BLは男たちの女への抑圧など、最初からなかったことの証明でした。
*3 ちなみに腐女子が自らを「性的少数者」だと位置づけているという指摘は、溝口彰子師匠のものです。細かい話ですが、ここは腐女子が自らを「異端者」と位置づけていることを、フェミニストである溝口師匠が「性的少数者」と位置づけたのだ、と読み替えたのではないでしょうか。溝口師匠の著作は未読なので、これはまあ、あくまでゲスの勘繰りですが。
師匠は腐女子を、一般のオタクよりも更なるマイノリティであると考えているようです。
その例として、腐女子はオタクよりリーダーシップを取ることが少ないとの調査結果を挙げるのですが(140p)、繰り返すようにオタク群は男子が多いと想像できるのだから、どうしようもありません。腐女子の方がオタクより自己否定的、他者否定的であり、親密性回避の傾向、親と葛藤する傾向があるともされますが(第7章)、これも同様に、ジェンダー差(これは必ずしも女性の方が自己否定的ということではなく、女性の方がそうしたことに敏感であり、そうした感じ方を表に出したがる、ということです)が大きいはずです。
本書は学術書であり、あくまで学生に対する調査と、それを元にした考察という、妥当かどうかは置くとしても手続きとしては「科学的」とされる形を踏まえた記述が続きます。
が、本書が特徴的なのは、それらの合間にインターミッションが挟まれていることです。
ここで師匠はやたらサブカルチャーについて語るのです。そこにあるのはハイカルチャーvsサブカルチャーという素朴な対立構造を前提とした、「マイノリティを抑圧する、排除の論理をやっつけろ!」とでもいったような世界観です。
それは「オタクは市民権を得たが、腐女子はその代わりに否定的イメージを一身に背負ったマイノリティだ(大意)」と主張する「社会的マイノリティとしての腐女子の心理学的研究(161p)」や、ハイカルチャーとサブカルチャーの対立構造について熱心に語る「趣味と幸福感」(213p)、そしてまたサブカルチャーへのシンパシーを吐露する「「自分たちだけが正しい」と主張する人たち」(233p)にも現れています。
実のところ本書の序章で、師匠はやたらと腐女子とサブカル(師匠は「サブカルチャー」としか言っていないのですが、敢えてぼくの感覚で「サブカル」と称します)とを結びつけようとしているのです。「少女マンガとグラムロック」「耽美派少女はサブカルチャーを漂う」「パンク・ニューウェーブからヴィジュアル系ロックへ」「耽美派からアニメファンへの勢力移行」といった項タイトルを見ていくだけで、何とはなしに師匠の世界観が見えてくるのではないでしょうか。それは「BLは元はサブカルの範疇であったが、後にオタク文化に取り込まれた史観」とでも言うべきものです(もちろん、項タイトルなどは編集者が考えることも多いわけで、本書もそうである可能性はあります。しかしこの項タイトルが内容を正確に反映しているとの判断から、例として挙げてみました)。
先に「耽美群」という言葉を紹介しました。調査の度に毎回毎回、天丼として「耽美群は極めて少数なので除外した」と書かれることも述べました。
ぼくの感覚ではBLは言うまでもなくオタク文化の一カテゴリーなのだから、「耽美群」は何かのバグとも言うべき例外だと思われるのですが、師匠の中では「オタク文化に足を踏み入れない、サブカルとしての腐女子が存在するのだ」とでもいった解釈が成り立っているのではないでしょうか。だからこそ「耽美」というネーミングを、(実際にはどんな人々か判然とせず、ホントに耽美かどうかわからないのに!)師匠は与えてしまっているのです。
師匠は腐女子に過度に夢を見て、それ故に「俺の妹になれ」と腐女子を口説こうとしている人のように、ぼくには思われるのです。
その意味で北田、山岡両師匠とも、根本的な部分では変わらないとも言えますし、告ハラなんて概念が持ち出されている昨今、二人ともタイーホされてしまうのではないかと思うと、心配で夜も眠れません。
ちなみに「腐女子はオタクより以上のマイノリティ」というロジックのどこまでが正しいか、ぼくには疑問です。むしろ北田師匠を見てもわかるように*4オタク女子=腐女子といった見方が昨今では普通でしょうから、腐女子ではないオタク女子こそマイノリティという考え方も成り立つし、またオタク男子がBLを憎むという側面もあるだろうけど、それも当たり前と言えば当たり前、むしろそのわりに寛容だと見るべきだと、ぼくは考えますから。
いずれにせよ、師匠のスタンスはある意味では「オタクを抑圧する自民党をやっつけろ!」と言っている人たちに近いと言えば近く、これをして師匠を「オタクの味方」とするか、「オタクを勧誘しようとしている、悪の組織のスカウトマン」とするかは解釈が分かれるところでしょう。
では、そのどちらがより師匠の実態に近いのか……そこを次回はもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
*4「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』」