『Daily WiLL Online』様で「リケジョと呼ばないで」の動画について、記事が掲載されています。
久し振りの記事ですが、目下人気ランキング四位!
より以上の応援を、よろしくお願いします。
さて、ここしばらく、『薔薇族』の元編集長である伊藤文学を批判をしてきました。
ペドファイルは幼い子供とのセックスを正当化する傾向がある、そして伊藤もまたそうした病的な考えを流布し、児童への性的虐待を推奨してきた異常な人間であると。
フェミニストもまた、伊藤とタッグを組み、児童への性的虐待を推奨してきた異常な人間たちです。
その具体例について、当ニコブロをご愛読の皆さんはよくご存じかと思いますが、ここではちょっと新ネタを。
『ユリイカ』「2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル」における柴田英里師匠の言をご覧いただきましょう。
『ユリイカ』と言えば、金田淳子師匠や加野瀬美友師匠といった当ニコブロでもおなじみの香ばしい人材を抱えた雑誌。『現代思想』と版元を同じくする極左の宝石箱であり、近年はことさらに(BLやオタク文化を含め)サブカルチャーをネタにしては若い世代に媚びを売っている感があるのですが、本特集における柴田師匠の記事、タイトルを見るだけでもヤバいムードが漂ってきます。
ではどの内容は果たして、いかなるものでしょうか……?
ジャニー喜多川が同性愛者・少年愛者であり、彼の事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているというウワサは、一九六〇年代から散発的に報道されてきた。
(226p)
柴田師匠は記事の一行目から、まずこの問題に言及します。
なかなか攻めてると思いますが、まあ、タイトルからして避けて通るわけにもいかない点ではありましょう。
ぼくが前回ご紹介した北公次の本も紹介されていますが、それに加え同主旨の暴露本がそれぞれ違う著者(いずれも元ジャニーズメンバー)から七冊ほど出されていることがあどけなく語られ、ちょっと驚きます。
そもそもジャニーは二十年前、自身の少年への性的虐待を「文春砲」によって告発されています。それに対しては名誉毀損の民事訴訟を起こしているのですが、裁判の場に元ジャニーズの二名が証人として出廷し、性的虐待について語っています。2003年に東京高裁がジャニーの行為を事実として認めており、要するに(案件としてはジャニーの性犯罪を裁いたものではないとは言え)裁判所が彼の児童への性的虐待を事実と認定しているのです。
以上は柴田師匠の記事にも書かれているのですが、師匠はその後、以下のように続けます。
ゆえに、ジャニーが所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているというウワサは、荒唐無稽なデマとはいえない。と同時に、人間は記憶を都合良く書き換える生き物であり、能動と受動、同意と不同意は明確に線を引けるものでもない。すでにジャニー がこの世を去った今、真実は藪の中であり、ウワサはあくまでもウワサである。
(227p)
れれッッ?!
たったこれだけの文章で、前半と後半が全く空中分解しています。
ま……まあ、そりゃ裁判所のジャッジが絶対にいついかなる場合も100%正しいとは限りませんが……ウワサはあくまでウワサって……。
また「能動と受動、同意と不同意は明確に線を引けるものでもない。」とは言いも言ったりです。
能動と受動って、ひょっとして師匠は幼い少年が薄汚い老人を無理矢理レイプしたという可能性を考えているんでしょうか?
同意と不同意ってアナタ、確かに仮に未成年でも日本では13歳以上が成功同意年齢とされており、一応、それ以上の年齢で同意があれば、合法とは言えましょう(当時は都条例による規制もないでしょうし)。しかしジャニーズJrなんて12歳くらいの子もいるし、全てが13歳以上の子供との案件だったんでしょうか。
それに、師匠は被害者が女の子でも同じことを言うんですかね。
そもそも、「同性愛」「少年愛」「ペドフィリア」といっても、時代や国によって扱われ 方はかなり異なり、過去の常識が現在の非常識、現在の非常識が未来の常識となるように、激しく移り変わっている。
(227p)
またペドとホモを混同して正当化しています。
これ以降、柴田師匠は戦国時代や古代ギリシャでは少年とのセックスが許されていた云々と述べ出しますが、そうした前近代の話を持ち出して自分たちを正当化するのはペドの常套手段です(同じ口で「昔はホモが犯罪だったぞ」と真顔で言っているのだから、聞かされている方は頭がおかしくなりそうですが)。
近年、LGBTの急速な認知と社会包摂と平行して、ペドフィリアの排除が進行して いるが、一九九〇年代初頭までは、少年愛と男性同性愛の権利運動は共に活動していた。
(227p)
松浦大悟師匠は幾度も幾度も「1990年代、ホモレズ団体のILGAが少年愛者団体NAMBLAを排除した」件を採り挙げ、ぶち切れていますが、これはその件を逆に表現したものでしょう。しかし90年代以前も具体的に排除していなかっただけで、ホモ側も少年愛者を積極的に仲間だと思っていたわけじゃないと思うのですが。
柴田師匠の言い訳は、お定まりの苦しいものばかりです。明言はされていませんが、「成人と子供とのセックス」を(ホモ限定でも)よきことだというのが師匠のホンネなのではないでしょうか。
さて、そうしたよくわからない言い訳の後、話はアイドル語りに移っていきます。
ジャニーズタレントが中性的だの何だの。
シブがき隊の歌とか、典型的なチンピラソングですけどね。
宝塚の少女たちが少女の性から逃れ切れていないのに対し、ジャニーズの少年たちは少年の性から解放されている、ジャニーは父権的でない、云々。
フェミ的にはレイプって「支配」のためになされるっていう「設定」だったと思うんですが。あ、ジャニーはレイプしてないって「設定」でしたっけね。
後はジャニーズアイドルが「ダサい」格好をしているが、それは「ダサさ」に「セックスアピール」を隠しているのだ、とか何とかどうでもいい話。BLにおいても男性が「性的主体」として振る舞うことを嘲笑するような描写もありますし、分析としては正しいんだろうな、という気は何となくしますが。
ともあれそうした萌えトークが続いた後、またペド擁護に(脈絡なく)戻ります。
しかし、「子供の権利を守る」という理念のもと作られた法や規範が、本当に子供を尊重しているのかは甚だあやしい。おそらくこれからも未成年が成人と全く同等の権利を持つことはないと思うが、それにしても、この手の「子供のために」をうたうものには、子供の持つ欲望や子供の自己決定の意志を蔑ろにし、子供の生身の身体を奪い、自分たちにとって都合の良い「子供という概念」に置き換えてしまうようなものが多く存在する。
(中略)
そこには、「子供の権利」の名のもと、子供の身体を都合良くハッキングする人々がいるのではなかろうか。
(237-8p)
あー、はいはい。
子供にもセックスをする権利を認めよ、ということのようです。
ぼくにはペドやLGBT運動家こそが「「子供の権利」の名のもと、子供の身体を都合良くハッキングする人々」だと思いますけどね。
この後、ハナシは(オタクのご機嫌を伺うためか)アニメや漫画の規制ハンターイ! みたいな方向にずれまくり、またジャニーズ萌え話に(脈絡なく)戻りますが、記事の紹介はこれくらいにしましょう。
以前もぼくは柴田師匠の「ペド推し」発言を批判したことがあります。
そう、前回もちょっと言及した斉藤章佳師匠による『「小児性愛」という病――それは愛ではない』についてのレビューの時です。
小児性愛はおぞましい思考なんですか?仮にあなたがそう思っているにしても、それをわざわざぶちまけるのって下品で失礼なことにはあたらないのですか? https://t.co/aPW0x9ylTh
― 柴田英里 (@erishibata) January 27, 2020
だいたい、異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しいものです。個人的な趣味判断から言えば、前者の方が醜いと思っていますが、私はわざわざ前者に該当する人を罵って回るようなことはしませんよ(数も多いのでやりあったら負けますし)。
― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020
いや、まあ、キレッキレのペド擁護、頭がクラクラします。
同記事(春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2))においてぼくは
端的には柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うからエラい」と言っているだけに過ぎず、方や斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだからけしからぬ」と言っているだけに過ぎないのですから。
と表現しました。
柴田師匠も斉藤師匠も深く深くフェミニズムを内面化している。
フェミニズムは「異性愛規範」を何よりも深く憎み、それを破壊することが絶対の正義だと盲信する危険思想である。
そこでペドを憎む斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだから悪だ」と(無理矢理なリクツを捻り出して)糾弾し、ペドを深く愛する柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うから正義だ」と(無理矢理なリクツを捻り出して)断言している。
同じ穴のムジナだ、というのがぼくの指摘だったわけです。
しかしまあ、一体全体、柴田師匠はどうしてここまで子供とのセックスを肯定したいのでしょうか。
ぼくはこの時点では師匠が「表現の自由クラスタの姫」として君臨するため、彼らに媚びを売るような発言をしているのだと判断しておりました。
しかしこうして見ると師匠の「ペド推し」はジャニーズを肯定するため、もっと言えば少年愛者の正当化こそがその主眼だったのではないでしょうか。
柴田師匠が指摘するように、海外のLGBT運動が従来、ペドファイルを排除してきたことは確かに事実ではあります。しかしWiLL様などでも書いていますが、近年のLGBT運動が「子供をLGBTの仲間に引き入れること」に熱心なのもまた、否定のしようがない事実です。それは同時に、どうしても(柴田師匠の力説を見ればわかるように)子供とのセックスを肯定することにもつながる。
やがてLGBT運動はペドファイルと「和解」することを、ないし既に水面下では手を取りあっていることを、柴田師匠は知っているのではないか。
ただし、ロリコンの方々には申し添えておきたいのですが……柴田師匠の片棒を担いでも、おそらくこうした「ペド擁護論」は「少年愛者の男/少女愛者の女」の幼児虐待を正当化する時のみに「発動承認」され、(子供どころか大人同士でも)「異性とのセックス」は絶対悪として、いよいよキツく規制されるよになる、というのがありそうな未来予測図ではないでしょうか。
スペシャルボーナスです。
本書(というのは『ユリイカ』のことですが)には「トモコ」という名義で「ジャニー喜多川という少女」という文章が収められているので、ちょっとだけご紹介しましょう。
しかしジャニー喜多川にはもっと大きな闇がある。ホモセクハラ問題だ。ジャニー喜多川のホモセクハラ問題だ。
(151p)
ここでもしれっとジャニーの虐待が認められています。
先にも述べた文春裁判について言及、
表だったメディアで語られていないとはいえ、二〇〇四年の裁判結果を見る限りホモセクハラは事実だ。
(153p)
おお、同じ件に言及しつつ「ウワサだ」と言い張る柴田師匠とは違い、事実を受け入れるとは何と清廉なことか!
そう思って読み進めると。
(引用者註・ジャニーの)訃報直後からインターネット上ではそのホモセクハラ問題について語る人物たちが少なからず存在した。それはどちらかというとジャニオタと呼ばれる人たちではなく、普段からあまりジャニーズを好ましく思っていない人たちによって語られていたように思う。(中略)正直に言えばジャニオタたちがそんなことを知らないわけはないのである──見ないふりをしているだけで。
(151-152p)
その上で語り始めるなら、まずジャニー喜多川のホモセクハラ問題に同性愛差別の側面はなかったのだろうか。
(中略)
あえて差別的な言葉を使うが、ホモセクハラだからセンセーショナルでゴシップとして好まれたのではないのか。
(154p)
れれッッ!?
ジャニーズの児童への性的虐待の報道は「男たちのホモ差別で~ちゅ」ということらしいです。
本稿においては、どんな場合であろうとセクハラ(じゃなくレイプだと思うんですが……)は許されない、と再三繰り返されてはいます。
また自分たちジャニオタもまたある意味ジャニーの共犯者であると、殊勝にも認めてはいます。
しかし上の文章も(中略)した箇所には「我々は差別と戦ってきたのだ」などと書かれていたり(この「我々」というのが具体的に何を指すのかわかりませんが)、上の文章の直後には「女(のタレント)もセクハラを受けているが、男たちはそれを許容している云々」とまあ、フェミ的定型文が並びます。
が、それが現実を反映しているとは、とても思えません。仮にAKBなどが未成年の時点で秋元康が性交渉を強要していたとわかったら、完全に社会的に抹殺されると思いますが、ジャニーは結局(社会的生命も含め)天寿を全うしています。
この後もジャニーズアイドルを「女こどもの文化」であると称し、
しかしその客の大半は少女たちだ。だからこそ、少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきたのだ。
(158p)
などと言い出します。意味が取りにくいのですが、どうもこれは「ジャニーズアイドルのジャニーからのレイプ」が「少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきた」わけではなく(いくら何でも、それではついさっきまで男どもが大騒ぎしていると憤っていたのと矛盾が生じます)、ジャニーズの文化そのものが「少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきた」のだと言いたいようです。面の皮の厚さもここに極まれりだと思います。
そう、汚い変質者の子供へのレイプすらも、フェミニズムにかかっては「ヘテロセクシャル男性の女性への差別」に変換されてしまうわけですね。
ついでなので最後の数行を引用して本稿を終えましょう。
最後にもう一度繰り返しておく。セクハラは対象が男性であろうと女性であろうと最低な暴力であり、許されるものではない。見て見ぬふりをしてはならない。同じく芸能界に蔓延るとされるパワハラも同様 だ。
どうかジャニー喜多川よ、安らかに眠って欲しい。あなたはきっとずっと私たちと同じ罪深き少女だった。あなたの作り出したものは最高でした。
(160p)
サイコーに薄っぺらなキレイゴトですね。
ちなみにこの人物の肩書きはただ「ジャニオタ」となっています。
想像ですが誰も書きたがらないジャニーの性犯罪についての言い訳を、執筆者の誰かが子分のジャニオタに押しつけ、結果こうした摩訶不思議な一文が生まれたと、そういう裏事情があるんじゃないでしょうかね。