前回ご紹介した、LGBT関連の記事の続編が掲載されました。
「フェミニズムの「害」が女性に逆流し始めた」です。
目下四位! どうぞ、より一層の応援をよろしくお願いします。
さて、こちらは『広がるミサンドリー』のレビューの再録の最終回。前回と今回は初出では一つの記事で、(その3)として、2018年4月6日に発表したものです。
では、そういうことで……。
* * *
さて、では、これからぼくたちはどうすればいいのだ、と言われても困るのですが、しかしぼくたちが考えるべきことは、もう自明であるかのように思われます。 例えば上の映画『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』には当初、チャドと協力状態にあるものの、次第に被害者女性を真剣に愛するようになるハワードという男性も登場します。言わば、今一頼りない男という、90年代を象徴する人物です。前回挙げた『愛がこわれるとき』のベンも、そんな感じでしたね。が、しかしそこを考えるとこの映画もまた「女性に加害する男性、誠実に愛する男性」の二者の登場するジェップスなのです。
先に、こうしたジェップスを「ジェンダー規範に忠実」と書きましたが、正確にはちょっと違う。古典的な、ジェンダー規範に忠実な物語であれば、ハワードはヒロインを助けに来る正義の味方として描かれていたであろうからです。
ひと昔、90年代より前ならば正義の男性と悪の男性が物語のメインとして描かれていたはずです(本書は専ら90年代の作品について語られています)。男性は能動的に動くというジェンダー規範が求められるため、かつての物語において、「ヒーローであると共にヒールであった」。つまり女性は無力なピーチ姫(或いはオリーブでも何でもいいのですが)という役割のみを与えられていたが、男性はマリオかクッパ(ないし、ポパイかブルート)に分かれていた。ところがマリオやポパイが失われてしまった、それが90年代に起きた変化だったのです。両者が共にブルーカラーなのは実に示唆的です。
『セーラームーン』はまさにこの時期に誕生した「女の時代」の寵児であり、そうした「男を蹴散らす」的なミサンドリーの念をもって描かれ、しかしアニメスタッフによってそうしたノイズが取り除かれた良作であることは以前指摘した通りです*4。とは言え、このセーラームーンにおいても、彼女の彼氏であるタキシード仮面は活躍すると「男のくせに出しゃばるな」と言われ、しくじると「男のくせに情けない」と言われた存在でした。
かつてより、「男は悪者」でした。その代わり、かつては「男は正義の味方」でもあり、「女はお姫様」役を演ずるのみでした。それは丁度、手柄を立てるのも悪いことをするのも男の方が多いという、現実世界のジェンダー規範の、忠実な反映です。
男性解放論者の古典的名著『正しいオトコのやり方』において、フレドリック・ヘイワードは
女の子はお砂糖とスパイスと、すてきなものばかりでできていた。そのかわり弱くて、おばかさんで、パンクしたタイヤも取り換えられない。そして男の子は強くて自信に満ち、有能だった。そのかわり無法者で信用がおけず、セックスに目がなくて、卵もゆでられない連中なのだ。両性の闘いは続き、そして現在、主役と悪役は決定された。女の子は以前両性で分けあっていた良い性質を全部独占してしまった。男の子はただもう、悪いだけだ。
(191p)
と極めて鋭い指摘をしています。
本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです(久米師匠は「ヒーロー」の存在そのものを「男性差別」だとい言い募りそうですが、まあ、彼のことはどうでもよろしい)。
言わば「ミサンドリー」はあってもいい、しかしよりそれ以上の「オトコスキー」がかつてはあったし、あってしかるべきなのにそれが失われた、何故なのか、というのが設問であるべきだったのです*5。
その理由は、何か……? 大情況的には産業のサービス業への移行に伴う男性性の価値の減退みたいことは、先進国に必ず起こる必然だったでしょう。ヴィジュアル文化時代には、見栄えのする女性が有利ということもあります(これはテレビ普及が大きいでしょう)。
むろん、フェミニズムだけが原因ではないとはいえ、彼女らがそこに乗っかり、男性のネガティビティを喧伝し続けてきたということは言えます。本書の諸々の指摘は、そうしたフェミの蛮行の記録にもなっており、そこはもちろん、大変に有意義です。
本書を見ていくと、ポリティカルコレクトに対する鋭い批判、左派が雑に黒人と女性とを混同して「聖なる弱者」に仕立て上げている点についての批判もあり、それぞれ至極もっともな話です。
端々には
ほとんどの人はもし完全な平等が達成されたら、もし私たちが文化システムとしてのジェンダーの名残を全滅したとき、何が実際に起こるのか考えようとしない。私たちが、“脱ジェンダー化”と呼ぶものは全ての男女の文化的違いを解消し、生物学的違いさえ緩和するだろう。ではどうやって男性も女性もアイデンティティを形成するのだろう?
(140p)
といった記述もあり、これなどジェンダーフリーへの鋭いカウンターになっています。
しかし、同時に別な箇所ではジェンダーフリー肯定と思える記述があるなど、全体を通してみると本書がぶれないはっきりとしたビジョンを提示し得ているとは、言い難い。
ましてや久米師匠には、批判する漫画がむしろ古典的ジェンダー観に則ったものであることが象徴するように、ジェンダーフリーへの強烈な志向がある。
それともう一つ、彼は「男性差別解消を目指す人は人文系の学問を納めるべき」と主張し、また本書を学者、学生に読まれることを期待しているなど(445p)、どこか権威主義の匂いのする御仁です。また、上の腐女子への視線や先のポルノ批判の記事*6を見ても、オタクに対しての憎悪を持っていることが窺い知れる。仮にブログ「独り言 女権主義」の主が久米師匠であるとの顔面核爆弾さんの考えを正しいとすると(以前、コメント欄でそう書いてくれた人がいたのです)、そのオタク憎悪の強烈さは疑い得ないものとなりましょう。つまり彼自身が今の左派の特徴である「とにもかくにも弱者と見るや、本能的に激烈な憎悪を燃え立たせる」という特徴を十全にお持ちの方であると評価せざるを得なくなるのです。
ぼくが「女災」問題と「オタク」問題を並列させて語ってきたわけは、当ブログの愛読者の方にはおわかりでしょう。「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結べる存在であり、従来のポリティカルコレクトネスの穴を突く存在(アメリカで言えば「プア・ファット・ホワイトマン」に当たる存在)であるからです。
そのオタクを呪う久米師匠こそ、この世で一番の「ミサンドリスト」と言えましょう。
左派が女性でありセクシャルマイノリティであり特定の外国人でありを理解する素振りを見せるのは、言うまでもなく彼ら彼女らの人権を慮っているからでは全くなく、最初から持っていた「社会一般」に対する強烈な憎悪を、「正義」に偽装するためでした。
フェミニズムの本質は「方舟」です。「甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズム」です。
自らのエリーティズムを満たすため、方舟に搭乗したが、しかしその方舟すらもアララト山に辿り着くことができないと知った者がいたとしたら……?
今までの久米師匠の主張は、彼が彼なりに考えて提示したアンサーでした。
弱者男性を深く憎悪する久米師匠(及び、田中俊之師匠)は「男性解放」を小銭稼ぎのネタにすると同時に、実のところ自分たちと歩調をあわせる「選ばれし者」のみを正義とすることで、男性一般は見下すというウルトラCを開発した方でした。
一方、数年前まで「世界ミサンドリストナンバー1」の地位にあった「オタク界のトップ」は、しかしながら、目下のところオタクの味方のフリをしている。彼らは専ら「表現の自由」問題というワンイシュー()に論点を特化することで、今までの方法論のまま、オタクの味方として振る舞おうとした人たちでした。
久米師匠の、フェミの方法論をパクろうという施政方針演説を見ればわかるように、彼らはフェミニストを憎みつつ、同時に彼女らの持つ資産、つまり論理の構築であり(これこそ非実在の仮想通貨なのですが)アカデミズムやマスコミにおける権力に魅力を感じているように思われます。
彼らはフェミニストのトップを殺して、首だけを挿げ替え、そのリソースを利用しようという野望に憑りつかれてしまったのではないでしょうか。彼らが勝利した時、きっとバカ殿としてピル神みたいな人が椅子に座らされることになるのでしょう。
*5 さらに言えばフェミニズムとは「オンナスキー」が(専ら彼女らの責任で)失われ、もう、しょうかたなしに、ほとほと根を上げて、男がホンの僅かばかり露呈させた「ミソジニー」を手に取り、大袈裟に誇張して騒ぎ立てるという現象そのものでしたが、まあ、それは置きましょう。
*6 男性に対する性の商品化の学問上の批判
コメント
コメントを書く