ヨシイエ童話

 二十年以上前に描かれた漫画なのですが、ぼくは先日、初めて読みました。
 読んで、驚きました。
 この人の主張は、『電波男』と同じなんですよ。
 いや、全く同じではないけれども、かなり被る部分があるんです。
 単行本としては『ヨシイエ童話』という形で出ているのですが、『LOVE男』編が始まる五巻が出たのは1992年。バブルの真っ最中に本作の著者、業田良家さんはたった一人で「恋愛至上主義」と戦っていたのです(ウィキで見ると厳密には91年までがバブルのようなのですが、同時にこの頃はそうした残り香が色濃く残ってもおりました)。
 以下、駆け足であらすじをご紹介しますが、あくまでこれがバブル最盛期に描かれたお話であることを念頭にお読みいただければ幸いです。

 主人公の大学生、ラブオは当時の典型的な男性像っぽいチャラ男です。そんな彼がやはりクソビッチ真理子にあっさりふられ、「真の愛が欲しい」と切望したところから物語は始まります。
 そんなラブオの下に現れた、「LOVE男」のメッセンジャーと名乗る怪人。彼は「LOVE男がお前を後継者として選んだ、ミッションを果たしていけばお前もLOVE男になれる」と称し、ラブオは半信半疑のままそれに振り回されることに。
 そこに絡んでくるのがアパートの隣人、沼津。彼は三十過ぎの典型的なブサメンで、野暮の極みの田舎者、しかし非常に誠実な人間として描かれます。
 そして更に現れた考古学者はかつての日本に「人格者文明」なる超古代文明が存在したと唱え、その文明は「勇気男」、「真実男」など十三人の賢人(極上人格者)が治めていたユートピアであり、LOVE男もそうした賢人の一人であったと言います。
 一方、その考古学者には孫娘のみさおがおり、彼女は「美人だが、清楚で普段は眼鏡をかけていて野暮ったく見られている」というオタク好みとも、古典的少女漫画的とも言える設定。みさおは見た目は悪いが誠実で心優しい沼津にぞっこん(どういうわけか彼女には沼津が二枚目に見えているらしい)。沼津もまた彼女を愛しますが、何しろ朴念仁のため、全くアプローチができない。そこにつけ込んだラブオが小狡い手でみさおの気を引こうとするのに、読んでいる側が苛つき続ける、というのが前半のストーリーです。

 さて、いかが思われたでしょうか。
 何しろ当時はヘラヘラとした恋愛至上主義の時代でした。
 読んでいる側も、「誠意を持った沼津が愛を勝ち取る」というクライマックスを思い浮かべるのではないでしょうか。
 さて、ここから先は大幅なネタバレが開始されます。
 もしオチなどを知りたくない方は、以降は読まれませんよう。

 ――中盤ではまるで沼津が主役であるかのように彼とみさおの関係が描かれ、二人はついに恋人同士になるのですが……何か急に、沼津は冷めてしまい、みさおを捨ててしまいます。

 れれっ!?
 と思われたのではないでしょうか?
 ぼくもそう思いました。

 そこへ新キャラとして沼津の父親が出現、彼をペルーに連れ出します。当時紛争地帯であった場へ、国際的大問題を解決するために。
 実は沼津の父は「勇気男」でした。そう、彼もまた極上人格者の末裔であり、息子を後継者にしようとしていたのです。
 そこで極上人格者たちの会議の様子も描かれます。
友情男」、「倫理男」、「誠実男」、多くの賢人たちが死んだり行方不明になったりしているという非常事態、そこにとうとう「LOVE男」がその姿を見せます。彼は「今のままでは人類の文明は行き詰まる、それを阻止するには我々の正体を明かし、現代人に警告を与えるしかない」と説きます(ちなみに「LOVE男」は業田作品にスターシステム的に登場する「源さん」。他の作品でも人間の良心を象徴するような超越的キャラとして、この源さんが多く登場しています)。
 さて、LOVE男が語るには、古代の人格者文明は「愛こそすべて教」という恐るべき邪教に滅ぼされてしまった(この宗教のため、「恋愛をしていない者は半人前と見なされるようになった」という描写が笑ってしまいます)。しかし今の文明はそれよりも深刻な事態を迎えている。「愛こそすべて教」に加え蔓延する「商品としての愛」によって、ぼくたちの文明は滅びを迎えようとしているのです。
 極上人格者が十三人おり、一人ひとりが様々な徳性を象徴することが端的に表すように、愛という徳性だけが特化されている今の状態ではダメだ、というのがLOVE男の主張です。
 同時にラブオの身辺では母も姉も「真の愛を見つける」と称して家を出て行き、姉が「統一愛教」に入信し、集団結婚式を挙げる様も(イメージシーンとして一コマだけですが)描写されます。丁度この頃、統一教会が問題になっておりました。
 それらと平行して、LOVE男の言葉が続きます。愛がもてはやされるほど、人はどこにもない、いや自分の中にしかない「真の愛」などというものを求めるようになる。そうした幻の「真の愛」を求めれば求めるほど、人は逆説的に愛を失ってしまう。なるほど!

 ――ただ、やはりちょっとぼくは、上の沼津とみさおの下りに疑問を感じました。
 浮ついた愛を否定することが本作のテーマと言うことは、ここまでくればわかることです。しかしそれが語られる前(LOVE男登場前)には、二人の恋愛がこれでもかと描写されていました。
 みさおにふられたと誤解し、廃人同然になるほどであった沼津が、自分を求めて半狂乱になっているみさおを捨てて海外に旅立つのは、どうかなと思わざるを得ません。
 それに、トップの表紙を見ればおわかりになるかと思いますが、沼津は『ちびまる子ちゃん』で言えば永沢とかブー太郎とか、その辺りのご面相です。性別を逆にしてみぎわさんが花輪君をふるところを想像してみたら……やっぱり娯楽作品としてちょっとなと思うでしょう?
 例えばですが、ヒーロー物で最終回、悪のラスボスに「人類は地球環境を汚すから、滅ぼしてやるのだ」「真の悪は人類に潜む闘争本能だ」などと語られ、ヒーローの信じていた「正義」が揺らぐ、みたいな展開がよくあります。しかしそれでもヒーロー本人の善性が否定されるというのは例外的であり、本作の展開をヒーロー物に例えるならば仮面ライダーが実は悪意の主であるとされ、最後に善に目覚めたライダーがショッカー側についてしまうような、ちょっと感情移入のしにくいものです。

 ――だがちょっと待って欲しい。その感想自体、兵頭が実は「恋愛至上主義」の罠に絡め取られているからこそではないのか?

 はい。
 そこは別に否定しません。
 しかしそこは後で語るとして、もうちょっとお話におつきあいください。
 結局、ぼくが納得しにくかったのは沼津とみさおの「愛」が浮ついたニセ物、いや、そこまでは言わずとも、未成熟なものであった、といったような説明がなされていない点にあります。
 もっとも、みさおは諦めきれずに沼津を追い、最終的に沼津も彼女を受け容れる、という展開は用意されています。が、正直その描写も(これは単純にぼくの理解力不足である可能性が大ですが)ちょっと納得しづらい。
 ぼくはこの漫画を見ていて、島本和彦さんを思い出しました。
 島本さんの「硬派」な価値観は漫画にも横溢してはいますが、彼のラジオを聞いていると、それはよりストレートに感じられます。恋愛や女性、エロといったものに対して妙に潔癖である点。またそれと同時に、「わたくしごと」ばかりに邁進する昨今の漫画作品に対する深い怒り。一方、男性性に対する深いこだわり。「新劇場版はシンジが大義のために戦う話にすべき」みたいな主張を、彼はよくしています。
 その辺のオタが言えば「マチズモ!」「ホモソーシャル!」と叩かれるようなことなのですが、オタク文化人、フェミニスト腐女子が彼を批判したのを耳にしたことは、不思議なことに一度もありません。まあ彼ら彼女らが権威主義的で、弱者にしか牙を剥かないのはお約束ですが。
 閑話休題。
 ご存じの方も多いでしょうが、業田さんはむしろ政治漫画で知られた漫画家であり、その立場は保守寄りと言えます。
 その意味で沼津が「勇気男」の後継者であり、そんな彼を「勇気」を持って追いかけたみさおだけが、劇中唯一「愛」を成就させるというのは象徴的と言えば、あまりに象徴的です。本作は「愛」と「勇気」という概念を対決させ、二人だけの間で閉じてしまう「恋愛」よりは、より多くの人々を救う「勇気」をこそ上位に置いた作品である、とも言えましょう*。

 *しかし沼津の目的がペルーの人々の救出であることを考えると、彼は「勇気」男ではなく「正義」男とした方が、という気もしますし(ちなみに劇中、「正義」男は既に死んだと説明されています)、また、「急に愛が醒める」というよりはペルーの現状を知り、みさおを置いてでも駆けつけずにおれなくなった……という展開であった方が、という気もします。

 いずれにせよ、本作はスケールの大きい、素晴らしい作品です。
 それに間違いはないのですが、それでもぼくは、勝手に愛から冷めてみさおを一方的に捨て、紛争地帯で人々を救うことの方が意味があると「大義名分」を掲げる沼津に、感情移入しにくいのです。
 先に、古代文明では「愛こそすべて教」のせいで「恋愛をしていない者は半人前と見なされるようになった」という描写について指摘しました。ここなど今の「非モテ」論などを思わせなくもありません。
 とは言え、今の非モテ論は要するに

 1.女が悪い。
 2.社会が悪い。しかしぼくたちが女にモテるようになることはないので、二次元に引きこもれ。(本田透型)
 3.女に疑問を持つことも、リア充を妬むこともまかりならん。とにもかくにも現状で幸福を感じよ。(海燕型)

 に分けられ、結局、いずれも恋愛や女性そのものの価値には疑問を感じていないフシがあります。
 1.は(正直この1.型の論者の典型例をぼくは知らないのですが)恐らく「モテたい」という心情は否定していない。
 2.は三次元の女を捨て、二次元へと旅立っただけで、「恋愛」そのものの価値は最大限に認めている。
 3.はお前たちは「モテ」を諦念せよという考え方ですが、その本意は「女性を傷つけてはならぬ」というところにあり、「女性とリア充様の恋愛」をむしろ温存する方向にあります。
 つまり、こうした非モテ論は徹底的に「わたくしごと」の追求をまず、前提として是としており、しかし『LOVE男』は島本和彦ばりの男気で、それに対して「もっと大きなことに目覚めよ」と言ったのです。何だか、全ての魔法少女や人々を救うために「希望」そのものになったまどかちゃんを思わせないでもありません。
 しかしぼくはその一方で、「今時の若いヤツがわたくしごとにばかり拘泥する傾向」を一概に否定できないものを感じるのです。
 それこそ『エヴァ』が象徴するように、ぼくたちは「正義」を、「大きな物語」を喪失しました。米ソの冷戦構造が崩れたからでしょうし、景気が悪くて先行きが見えないからでもあるでしょう。『ガンダム』などのリアルロボットが「正義」に疑問を呈し続けたからでもあるでしょう。
 しかし、理由はどうあれ、今のオタク文化がそうした「正義の戦い」を放棄し、専ら「美少女たちとのハーレム」を志向していることには、やはりそれなりの必然性があるはずです。
ポリアンナ』の原作小説には、「ご近所の教会の人々が、国中で話題になっている紛争地帯だか何だかの難民を救う運動には夢中になっているが、足下にいる身近なスラム街の子供たちには手を差し伸べようとしない」といったエピソードが出てきます。
 こうした心性、つまり「近しい隣人の困窮に目が行かず、テレビに出ていたわかりやすい弱者に目が行く傾向」みたいなものに対して、「○○症候群」みたいに端的にまとめた言葉が何かあった気がするのだけれど、すみません、どうも思い出せません。ともあれ、ペルーに出かけていく沼津の姿も、ぼくにはこうした「遠視眼症候群(と、ひとまず言っておきます)」に見えてしまうのです。
 そうした心性には「悪気はないんだろうけれども、わかりやすい、いい人になりたいんだろうな」と傍目からは何とはなしにそのいやらしさが察せられてしまう欺瞞がつきまといます。
 それは例えば、「どうせ俺、男だし」「まあ、オカマなんて私の近所にはいないでしょ」との気楽さから、軽薄に(しかし本人は100%善意で)「オカマは可哀想なマイノリティだ、彼らのケンリを認めよ! それにはオカマに女湯に入る権利を認めよ!!」と、言ってしまうような。
 それならばやはり、ぼくたちは「勇気男」(でも「正義男」でもいいのですが)になろうと一足飛びに考えることなく、ひとまずLOVE男に弟子入りを考えるべきではないか。
 衣食足りて礼節を知るの言葉通り、自らがある程度満ち足りることでしか、先へは進めないのだから。
 以降、クライマックスを全部書いてしまうことにしましょう。繰り返しますが、本当に最後の最後まで書きますので、知りたくない方はここでストップしてください。

 LOVE男は愛に悩む人々(全員男)一人ひとりと語りあい、示唆を与えます。
 何しろ当時は男性が女性にアッシー君、ミツグ君として奴隷のごとく扱われることが普通とされていた時代です(フェミニズムがもっとも栄えたのがこの時代である、ということが、その思想としてのダメさを端的に物語っています)。LOVE男の言葉に目覚めた男たちがすっきりした顔で彼女の呼び出し用のポケベルを捨てていく様は、見ていて笑みがこぼれます。
 そしてラブオは、作品冒頭で自分の下に現れたLOVE男のメッセンジャーが実は自分より先に例の真理子にふられていた男だと知り、自らもメッセンジャーになることにします。LOVE男は後継者候補として、自らの弟子として何人ものメッセンジャーを育てていたのです。ラストは「街では最近メッセンジャーが増えてきた」ことが描写されると共に、相変わらず男たちを次々と乗り換えている真理子の下へ、ラブオがメッセンジャーとして現れるところで終わっています。

 ――正直、クライマックスは難解で意図は読みづらいのですが、(復縁するかなどはさておき)元・恋人と共にエゴイスティックな「真の愛」を捨て、「成熟した愛情」を持てる人間への成長をしていこう、というようなことなのでしょう。
 ここでは「愛の犠牲者」は常に男として描かれ、女性は「エゴイスティックな真の愛」とやらを振り回すダメな連中として描かれていることに気づきます(唯一の例外が先の沼津×みさおでした)。当時としては、いえ、今もですが当時は更に輪をかけて、「愛憎劇の悪役が女性」というのはリアリティがありました。上に書いたアッシー君、ミツグ君といった言葉が溢れていた時期ですから。
 この真理子も「真の愛」を探して、次々と男を乗り換えている人物として描かれています。それは、ぶっちゃければ「無私の愛でワタシを絶対的幸福に導いてくれる人」という、それこそ神様ででもなければできないようなミッションをクリアできる男性を求めての、終わらない男性遍歴とも言えましょう。それは彼女の「ネガ」であるフェミニストたちが、丁度、男たちに「コイツはダメ、アイツもダメ」とダメ出しをし続ける姿と全く、同じに。
 そこへラブオは、言ってみれば「身勝手なアスカに『気持ち悪い』と言いつつも、同時に『また会いたいと思った』と声をかけるシンジ君」として最後に姿を現したと言えるのではないでしょうか。

 さて、調べてみると大変残念なことに、本作は絶版になっています。
 確かに、バブル期に描かれた描写は今から見ると古い部分もないではないのですが、それでも充分に現代でも通用する、大人のための童話であると言うことができるかと思います。
 拙著と共に、再版希望のリクエストをしていただければ幸いです。