※この記事は、およそ12分で読めます※
皆さん、先週うpした動画はご覧いただけたでしょうか。
今回はその動画の取りこぼしネタ。
よって、未見の方は上の動画をご覧いただくことを強く推奨します。
・大丈夫か、この著者
さて、動画ではジョン・マネー本人よりも、マネーが水に落ちたとたん、彼を容赦なく棒で殴打するフェミニストたちの振る舞いの方が不快だ、と述べました。
フェミニストたちは明らかにある一時期まで、マネーをカリスマとして崇めていたのに、権威が失墜するや、手のひらを盛大に返す。彼女らには自らの言動に責任を負うという概念が、端から欠落しており、彼女らのドリンクバーには自分たちの吐いたツバが常にフルチャージされています。
マネー本人だって立派なフェミニストだったわけで、彼女らの業界は使えなくなった者はすぐに処刑するという、組織としては一番やっちゃいけない体質を本来より持っている、特撮番組の悪の組織のような存在だ、ということがこれでおわかりになるかと思います。
そう考えると、何だか同情したくもなってきますね。
動画中では藤本由香里師匠、千田有紀師匠のご意見をご紹介しました。
藤本師匠は著書『私の居場所はどこにあるの?』において、持論がマネーに準拠している旨を述べた注釈を、文庫にする段階でばっさりカットしてしまった、文庫が出る頃には既にマネーの説が力を失っていたからであろうが、あまりに不誠実だ、といった指摘です。
もっともこの指摘は以前からしていたのですが、今回文庫版を読み返していて、別の章における注釈で、一応の補完がなされていることに気づきました*1。
男の方がジェンダーアイデンティティや性指向が不安定である、と述べた文章の注釈としてジョン・マネーの著作、『性の署名』の名を挙げている……ところまではハードカバー版も同じなのですが、文庫版ではそれに加え、『ブレンダと呼ばれた少年』の名を挙げ、マネーの説が批判にさらされていることも記し、以下のように続けています。
なお、二〇〇五年に出た同書の扶桑社版に付加された八木秀次による解説――この双子の症例は逆に、「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠とする説――は、『週刊金曜日』二〇〇六年九月二二日号掲載のコラピントへのインタビューで、著者自身により「自分の意図とは違う」と否定されている。
(283p)
込み入った経緯があるので、説明が必要でしょう。
まず、この『ブレンダ――』は最初に無名舎という会社から出ていたのですが、すぐに絶版になっています。
で、ゼロ年代のジェンダーフリーに対する保守派の反撃(フェミニストたちが「バックラッシュ」と呼ぶ一連の流れです)の一環として、本書の再販がなされた。それが上に書かれている扶桑社版であり、保守の論者である八木氏がそれに解説を書いた。
上の文章はその解説が、本書の意図を歪めたものだ、との主張なのです。
しかしそうした経緯は置くとして、まず、著者であるコラピント自身が自著を、双子の症例を「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠であると主張したものではない、と言っているというのは本当でしょうか。
この双子の症例だけで全てがわかるわけではないでしょうが、少なくとも本件によって、「性自認(=自分は男だ/女だという、根幹のアイデンティティ)」が後天的である、という説が極めて大きく揺らいだことは、認めざるを得ないはずです。
ともあれ件の『週刊金曜日』のインタビュー記事に当たってみましょう。
見ると記事は小山エミ師匠によるもの(爆笑)。
この方、「オカマは女湯に入る権利があるのだ」と力説し、ぼくに批判されたとたん、本当に数分後に「そんなことは言っていない」などと頑迷に言い出した方です。全て、ツイッター上の記録として残っているのに……*2。
ともあれ師匠の記事、「悲劇の意味をすり替えたジェンダー叩き勢力」を見てみると、確かにコラピントは
かれらがわたしの本の趣旨(原文ママ)や意義を歪めて自らの政治的アジェンダを推し進めようとしているのにはうんざりしています。
(23p)
と語っています。
ちなみに「かれら」というのは上にも名前の挙がった八木氏を含めた、保守寄りの人々、彼ら彼女らの用語で言うところの「バックラッシュ勢力」ということになります。
しかし、見る限り「本の主旨や意義を歪め」ることで「自らの政治的アジェンダを推し進めようとしている」のはフェミニストではないでしょうか。
もっとも、コラピントは日本語が読めないため、八木氏の「解説」をそのまま読んではいません。小山師匠や、コラピント自身の友人から説明があったというので、その時に「主旨や意義を歪め」た解説をされたのかもしれません。
事実、小山師匠はこのインタビューにおいても八木氏を「南京大虐殺や慰安婦を否定する人物だ」と説明し、コラピントはそれに対し、
それは本当に困ったことです。はっきり言って、もし予めそのようなおかしな出版社であると分かっていれば、日本版を出してはいなかったでしょう。
(23p)
おいおい、こっちもインチキがバレたヤツじゃんw
加えて、扶桑社がおかしな出版社扱いです。
『SPA!』とか、この人らの関係者もお世話になってそうですが。
驚くなかれ、コラピントは続けて、以下のようなことまで言っています。
出版エージェントに連絡して、その出版社から版権を引き上げられないか調べてもらっているところです。
(23p)
他にもコラピントは「本書を出したせいで(本国でも)保守派の集まりに呼ばれて怖かった」などと述べており、いずれにせよこのインタビュー記事自体、「ネトウヨムカつく」と言いあっているだけのもの。まあ、結論を言えばコラピントもリベラルであり、そのために小山師匠と馬があった、いうことなのでしょう。
しかし彼ら彼女らが、いかに保守派に憎しみを抱こうと、本に書かれた内容の示唆するものに、変わりはありません。
そもそもこの扶桑社版、本文はおそらく無名舎版と変わりないはずだし(そこを勝手に改稿し、それをコラピントが知らされないというのも考えにくい話です)、解説だってまあ、出版前に予め読んでいそうなもの。日本語が読めないにせよ、説明は受けるはずで、上にある友人による解説というのはおそらくその時のものではないでしょうか。
コラピントもどうしても不満があるのであれば、その時にその旨を言えたはずなのです。
上の「版権を引き上げる」というのが仮に実現していたら、悪質な忠言で、しかも解説の内容を確認しておくとの義務を怠ったという自分側の落ち度を省みず、しかも大手出版社相手の契約を翻すことになるわけで、結構な問題になっていた気もします。
このインタビュー記事の中に、八木氏の解説が本書の主旨のどこを捻じ曲げただのといった具体的な指摘は、ありません。当然、コラピントが「双子の症例は「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠にはならない」などと主張する箇所も、ありません。
見ればマネーの理論が破綻した下りについての解説すらなく(そもそもマネーという名前自体が一切出てこない!)、ここまでバイアスに満ちた記事を書かれるといっそ、清々しくすらあります。
*1「ちゃんと言及していたのを見落とした兵頭が悪い!」とのご批判もありましょうが(それはその通りですが)、そもそも最初にマネーについて言及した注釈をばっさりカットし、マネーと関連性の低い話題についての注釈で、こっそり言い訳めいた補足をすること自体、藤本師匠が逃げ腰になっていることの表れではないかと、ぼくには感じられます。
*2 驚いたことに師匠、その経緯をまとめられても「兵頭は自分の失態を自分でまとめている」と笑っていました。どうも全て、天然の振る舞いのようなのですが、当然、そうした人の著述にどれだけ信頼がおけるかは、お察しです。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ
・性自認と性役割の違い
このインタビューを持ち出し、反ジェンフリ派が間違っていると証明できたかのように言うこと自体、卑劣な詐術というしかありませんが、何、種明かしをしてしまえば他愛のないことです。
藤本師匠はマネーの失敗を「「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠」とはならないのだ、としているのですが、これは文章としては非常に、正しい(もちろん厳密には、師匠はコラピントがそう言っているのだと書いているのだから、いずれにせよそこは嘘なのですが)。
というのもマネーの失敗は「性自認」が後天的であることを否定はしたけれど、「男らしさ・女らしさ」というもっと大きな枠組みが後天的に学習されることもある、ということを全否定するものではないからです。
当たり前です。「俺」という一人称を使うのは「男らしい」けれども、アメリカ人が「俺」と言わないのは、その言葉が生後学習されるものだからです。
しかし逆に言うのであれば、(肉体が)男として生まれた以上、その時点で性自認も、あらゆる「男らしさ」も揺るぎなく備わっている……そんなことを考える人間は、どれくらいいるのでしょう。いや、保守派はそう考えているに決まっているのだ、というのがフェミニストたちの信仰なのでしょうが、今時そんな人物は例外的なのではないでしょうか。そもそも「男らしさ・女らしさ」という概念はそんなふうに言えるほどに、既に現代においては明瞭なものでは(誰かさんたちのおかげで)なくなっています*3。
しかし、性自認は生得的と思しいし、何でもかんでもジェンダー規範を悪しきものと否定するのは無理がある。それが「ジェンダーフリー」への批判だったはずです。
この「バックラッシュ」の盛んだった時期、フェミニストたちは保守派の「ジェンダーフリー」批判への再反論を意図した『バックラッシュ』という、そのまんまなタイトルの本を出しました*4。
その帯には「男女平等でどこが悪い!」と大書されていましたが、保守派は「男女平等はけしからん」などとは言っていなかったはず。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うと言っていただけでしょう。
こうした論理のすり替えにより、ともかく「保守派ガーーーー!!!」と繰り返すというのがこの当時のフェミニストの戦略であり、上のインタビュー記事だったのです。
もっとも、この「男らしさ・女らしさ」、ムツカしい言葉に言い換えるならば「性役割」とすべきでしょうか、それと「性自認」とを混同した議論は、保守派の論者にも時折見られたものです。
ただ、だからといって姑息な詐術で自分たちのしてきた主張を過小評価し、論敵が間違ったことを言っているかのように見せるというやり方が正当化されるわけではないことは、言うまでもありません。
*3 このインタビュー記事の小見出しには「「男らしさ」「女らしさ」の復活をもくろむ八木秀次をはじめとする右派勢力。」とあり、笑ってしまいます。彼女らにとっては男らしさ、女らしさは絶対悪であることは当然として、「もう、殲滅したはずのもの」みたいですね。
*4 実は『週刊金曜日』のインタビュー記事にも、小山師匠の「くわしくは『バックラッシュ』に書いた云々」の記述があります。
これについてもぼくは随分前に書いているので、そちらをご参照ください。
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
及びこれに続く三つの記事
・ジェンダーフリーと男女平等の違い
こうしたやり方は千田有紀師匠も全く同じで、彼女は『女性学/男性学』の中で再三デービット(ブレンダの、男性として生きることを決意した後の、改名後の名前)のインタビューを引用し、彼が「男女平等に同意しているぞ」とそれらしい箇所を引用してはガッツポーズを取っています。
いや、だから「男女平等」と「ジェンダーフリー」は関係ないんだってば。
確かにデービットは「女性として生きた期間があったことで、女性の苦労がわかった」といった主旨のことを語ってはいます。しかし、そりゃ、こういう立場になったらいろんな連中からうるさくされ、「俺は男女平等に反対の立場を取っているわけではない」くらいのことは言わざるを得ないでしょう。
経緯が少々ややこしいですが、デービットは当初はブルースと命名され、女の子となってからはブレンダと呼ばれていました。
このデービットという名前自体、本人が元のブルースという名を「オタクっぽい」ということで嫌い、「腰の座った男らしさ」を感じさせる響きを持つということで、聖書の英雄ダビデから取ったものなのです。「オタクっぽい」という表現の正確なニュアンスを掴むのは難しいですが、やはり彼はマッチョな男らしさを好んでいたのです。
千田師匠は『ブレンダ――』について、
(ただしこの本自体は、原題が『自然が彼を作ったように』というものであり、生物学的決定論を支持するために書かれています。しかしわたしには、作者の意図を越えて、いかに「自然」を押しつけることが、暴力的であるのかというメッセージを読み取りました)
(101p)
などと評しています。
あれあれ、結論部分(フェミは悪くない、ジェンダーフリーは正しい)は変わらないのに、藤本師匠とは本書の評価が正反対ですね。結局、この時期は何が何でも自分たちを正当化するために、みなさんアタフタと結論ありきの詭弁を弄していた……というのが正しい評価ではないでしょうか。
本の評価そのものは、千田師匠のものが正しいように思われますが、それ以前の問題として、師匠は作者の意図を越えたことを読み取っちゃってるんですから、これはもう「無敵」としか。問題はフェミニストはそのほぼ全員が、ほぼ全ての場合に相手の意図を越えたメッセージを読み取り続けていることなのですが……。
・おなじみ、ポストモダン忍術
千田師匠のもう一つの言い分は、「マネーのロジックは既に古びたものだ」というもの。これについても以前、採り挙げたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが*5、要はバトラーなどの言う「ジェンダーはセックスに先行する」というロジック。
実は小山エミ師匠の議論も結局はここに収束していくものであり(千田師匠がバトラーを解説している文章を引用していたりします)、言わば「近年のフェミの持ちネタはこっちであり、マネーは既にオワコン」ということなのですが、何度読んでもよく理解できないもの。
ここではよく「ネコがネコなのは、たまたまであり、ネコという呼び名と生物としてのネコには何ら関係がない(だって英語ではキャットなのだし)」といった比喩が使われますが、そんなこと言ったって、肉を食うとかにゃあと泣くといった「ネコらしさ」は不変なのだから、詭弁と呼ぶにもお粗末な物言いです(英語圏ではネコの鳴き声は【meow】と表現しますが、まさに言語表記に先行する、「ネコの鳴き声」という根源的なものは、世界で不変なのです)。ポストモダン関連の連中の主張って、全てこのレベルで、どこまでマジメなのかなあ、という感じなんですよね。
ともあれ、ポストモダンとジェンダー論がここで邂逅するというのも、何というか、ユダヤ陰謀論者が「ユダヤのバックには宇宙人がいるのだ」と言い出す様を見るようで、なかなか趣深いのではないでしょうか。
コメント
コメントを書く