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さて、続きです。
もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。
・第三章 ツイクィアが許せない
さて、今回やり玉に挙げられるのは「ツイクィア」です。
もっとも、あまり耳慣れない言葉かと思います。何せ、坂爪師匠純正の造語ですから。
詳しくは五章の項で述べますが、ぼくはずっと本書のページを、少々の期待と共にめくっていました。ここまででかなり失望させられていましたが、それでも懲りずに、微かな期待を持って、本章を読みました。
ぼくは以前、「ホモは女の女だ」と言ったことがあります。要するに「鯛の鯛」みたいなものです。女性の聖性がさすがに減じたと感じたフェミが、「さらなるマイノリティ」として運動のダシにするために呼び込んだご神体がLGBTです。だから彼女らはホモの児童へのレイプを告発する者を恫喝するなどして、まさにLGBTの騎士たろうとします。
その意味で、フェミにとっての「LGBT」は「政治的女性」でしかありません(だからここにはペドもSMマニアも入っていないのです)。
そんな、ある種「絶対に立ち入ってはならぬ聖域」とも言うべきLGBTの世界に、坂爪師匠が足を踏み入れたことは大いに評価すべきかもしれません。坂爪師匠はおそらくヘテロセクシュアル男性でしょう。フェミヒエラルキーでは最下等の者が、頂点へと唾を吐こうとしているのですから、その勇気は称賛されるべきという気もします。
さて、ではその内容は――。
その意味で、保守派の政治家や論客による「LGBTが許せない」の正体は、「左翼が許せない」「ポリコレが許せない」であると言える。
(134p)
はい、お疲れー。
いじめられっ子のA君に下着泥をさせておいて、A君が女子に吊し上げられたら「弱い者いじめは止めろ」と言い出すようなものです。
いえ、さらに読み進めると、多少毛色は変わってきます。
節タイトルを並べると、
「ゲイが許せない」の歴史
LGBTが許せないLGBT
「T」の憎悪
といった具合で、LGBTの内輪揉めの様子が延々と書かれます。
「あぁ、変態同士仲が悪いんだなあ。俺、関係ないから他所でやってね」と心の底から思わされます。
まあ、「マイノリティ同士が同士討ちをする」のはよくあることではあります。ぼくが繰り返す、「オタク差別とはオタクがしていたこと」史観もそうだし、結局、その意味で「差別」という言葉はもう、耐用年数を過ぎているとしか、ぼくには思えないのですが。
いずれにせよこの辺りは肯定的に見るならば、フラットな書かれ方をしていると表現することもできましょう。もっとも、うがった見方をすれば取り入るべき相手を定めているような印象も受けます。町にブタゴリラが引っ越してきたため、そいつがジャイアンより強いか、ジャイアンより強いならこいつに取り入らねばと品定めをしているスネ夫、といった感じです。
と、そんなことを思いつつ読み進めると、ターフについて語られ出します。
「そら来た」ですね。
2018年、お茶の水女子大がトランス女性の受け容れを発表した折、ツイフェミによってトランス女性の女子トイレ使用について、反発の声が上がったそうです。
現実のトランス女性たちは、ツイッター上でこうした仮定や推論に基づく議論が行われる以前から、日常的に女性トイレあるいは多目的トイレを使っている。そして特に問題になっていない。
(162p)
え……?
坂爪師匠によれば、この騒動はツイッター上のごく少数のツイフェミだけが騒いだに過ぎないことだそうです(ならほっときゃええやん、と思うのですが)。
しかし、オカマが女子トイレを使って問題を起こすことなど、今まで起こっていないはずがありません。「女装して覗きや痴漢を働いた男」の話は時々、ニュースで見聞しますよね。
また、坂爪師匠によれば「ツイフェミ」の声は「女装した犯罪者と区別がつかない」といったものだったそうなのですが、ここには「あくまで聖なるセクシャルマイノリティとしてのトランス女性」と「女子トイレに忍び込む手段として女装する、薄汚い性犯罪者」をきっちり両断できるものといった前提があります。しかし、その辺ってボーダーレスなんじゃないでしょうか。ぼくは屁理屈をこねて正当化しつつ、下着泥を繰り返す「トランス女性」の話を聞いたことがあります。オカマの中には高確率でヘテロセクシャルがおり、オカマなら女に性犯罪を働かないわけではないんですね。
結局この辺、実のところ「ツイフェミ」、「ターフ」とやらいう悪者扱いを受けている連中すらもが「聖なるマイノリティ」観を自明視しているように思える。となると「フラットな見方」どころではなくなります。
いずれにせよ「トランス女性」が女子トイレを使うことを嫌がるというのは、一般的な女性心理として、理解できる。坂爪師匠はそこを丸っと無視し、「オカマは女子トイレに入れるべき」という前提を自明視しているのです。
ぼくは実のところ、この「ターフ」問題について多くを知りません。が、「表現の自由クラスタ」が「ツイフェミはオカマを差別するから悪者だ」と主張する傾向にあるのに、きな臭いものを感じていました。
上にも書いたように、基本、フェミニズムはLGBTの親分といってもいい。
ひるがえって一般的な女性であればあるほど、「トランス女性が女子トイレに入ること」に抵抗感を覚えると想像できる。
結局、こうした物言いからは、一般的な感覚を遅れたものとして一蹴したがる、エリーティズムの腐臭が、どうしたって漂ってきます。
幾度も繰り返していることですが、小山エミ師匠は、「オカマには女湯に入る権利がある」などと主張しました*。フェミニズムはこうした空理空論に他ならず、一般的な女性には決して益しないものなのです。
* 詳しくは以下を参照。
その一方、千田有紀師匠がターフ問題に意見を述べ、オカマに攻撃された件については「千田師匠は、オカマを理解しているのに、攻撃的な一部のオカマに不当に叩かれたのだ」としています。千田師匠は「ターフ」などという造語はいたずらに対立を煽るだけだと、この言葉の使用自体に疑念を呈し、それがまたオカマの怒りを買ったのだそうです(164p・大意)。
ぼくは問題となった千田師匠の論文も呼んでいないので、どちらに分があるかはわかりません(し、興味もありません)。
しかし、坂爪師匠は「ターフ」という言葉は「フェミに憎悪を燃やすオカマ」「オカマから攻撃されたフェミ」以外はほとんど使わない言葉だとしています。また、このターフという言葉を「不在によって存在している」とも評します。
これはつまり、「被差別者」の位置に安住したいオカマが「敵」を捏造するために作った言葉だ、ということのようです。
確かに、「マイノリティ」がありもしない「差別」を見て取る傾向は大いにあり、そこを鋭く描写する様には、ぼくも賛意を示したい衝動に駆られます。
しかし既に述べたように、(坂爪師匠の主観では許されるべき)オカマの女子トイレ利用に文句を言った一派が存在し、ならばそれは(坂爪師匠の主観を前提視するならば)まぎれもない「ターフ」と呼ぶべき存在であり、ちゃんと実在しているのではないか。
もう、ページをめくる毎に主張が二転、三転、四転し、各々の矛盾を一切気にしないのが、坂爪師匠のすごいところです。
しかし、その真意は明らかです。要するに「フェミニストは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非フェミである一部の過激派が騒いでいるだけだ/LGBTは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非LGBTである一部の過激派が騒いでいるだけだ」としたいのでしょう。
ところが、そうした「真のフェミニストとは似て非なるツイフェミ」の主張は「オカマが女子トイレに入るのは抵抗がある」という、一般的女性の感覚に近いもの。
結局、坂爪師匠は一般的な人間の感覚を否定し、エリーティズムに酔っているだけなのです。
後、そもそも、上の「被差別者」の位置に安住したい者が「敵」を捏造するために作った言葉という評って、「ツイフェミ」や「ミソジニー」にこそ当てはまることであり、「不在によって存在している」というのは「真のフェミ」にこそ当てはまることですよね。
「クィア」というのは元は「オカマ」とでも訳すべき、ある種の侮蔑用語だったのですが、90年代、よきものに転化していこうというクィア・ムーブメントというのが起きたのです。意味あいとしてはLGBTと同じ、セクシャルマイノリティという言葉の言い換えですが、ここには同性愛者に限らないあらゆるセクシャルマイノリティと連帯していこう、といったニュアンスが込められていた印象があります。
実のところ、坂爪師匠はクィアスタディーズ自体を「オカマがルサンチマンを晴らすために学問の体系を僭称することで正当化しようとしたもの(168p・大意)」とまで言っており、クィアムーブメント自体にあまりいい感情を持っていないようです。
しかし、この「ツイクィアスタディーズ」という(醜悪奇怪な)造語が出て来るに至って、その本音はいよいよ露わになります。
師匠はある時には「(ツイ)フェミ」が悪いとし、ある時は「(ツイ)オカマ」が悪いとする。論点が整理されていないので支離滅裂な主張をしているようにしか見えませんが、要するに師匠は常に「ツイ」がついている方が悪いのだ、と言っているだけなのです。
周縁にいるツイフェミ、ツイオカマは偽物だ。(千田師匠を持ち上げていることからもわかるように)中央にいる我ら権威者こそが正義であるぞ。
坂爪師匠はただひたすら、そう言い続けているのです。
本書では「(ツイ)フェミがパターナリズムに堕してしまい云々」と嘆く箇所がありますが、何より権威側となり、従わぬ弱者を圧殺するぞとわめいているのは、どこまで行っても坂爪師匠の方なのです。
――というわけで、続きはまた来週。
「まだ続くのかよ」とお思いでしょうが、本書は「ネット世論」へのマスコミ側からの「返歌」であり、これ以降、マスコミ側の「アリバイ」として機能するはずの書。
どうしても、丁寧に反論しておく必要があります。
さすがに次回が最終回なので、どうぞご覧ください。
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