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さて、続きです。
もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。
さて、今回採り挙げるのは第二章と第四章。前回、これらの章タイトルが、
第二章 男が許せないとされているが、実際には
第四章 性表現(規制)が許せない
第二章 ツイフェミが許せないとすべき、と指摘したように、実質的にこれらは両方とも「ツイフェミ叩き」章だからです。
第四章 エロ規制が許せない
というわけで、少々長くなりましたが、道のりはまだ長い。
ガンバって書いたので、ガンバって読んでいただけると幸いです。
・第二章 ツイフェミが許せない
――さて、第一章ではさんざん「ミソジニスト」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への罵倒が並べられた本書ですが、第二章においては「ツイフェミ」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への怒りが綴られます。
これを聞いて、「お? 期待できるか?」と思った方も結構いるのではないでしょうか。
しかし、対象はあくまで「ツイフェミ」であり、「フェミ」ではない。
近年、ぼくが「ツイフェミ」に同情的な物言いをするのを聞いた方もいらっしゃるかと思います。「ツイフェミ」と「フェミニスト」の差異などこの世には存在せず、「ツイフェミ」という言葉そのものが、ただフェミニスト様が恋しくて恋しくてならぬ者によって、「真のフェミ」を免責するスケープゴートをでっち上げるために作られた言葉だからだ――ぼくがこの言葉が作られた時からずっと言ってきたことを、本章は実証するものとなっているのです。
呆れたことに本章では、東京医大の不正入試の件に「ツイフェミ」が怒ったことでさえ、「怒りの全体化」だと否定されます。上野千鶴子師匠だって怒りを表明していたわけで、そうなると上野師匠もツイフェミなのか、と思ったのですが、どうもそれは違うようです。
フェミニズムのキャッチフレーズに「個人的なことは政治的なこと」というのがあります。坂爪師匠もこれを引用し、しかしこれは一歩間違えると「私怨」を「社会的」に燃え立たせる口実になるぞ、と腐します。
正論だと思いますが、そうなると「ツイフェミ」が悪いのではなく、そもそもの「フェミニズム」が最初っから間違っていたとするのが、正しいのではないでしょうか。
また、何をもって私怨を社会化しているとすべきか、その判断基準は極めて曖昧です。上の件についても「上野師匠の文句はこれこれの意味で正当である、しかしツイフェミはこれこれの理由で不当だ」と一言あってしかるべきでしょう。しかしこの問題について、坂爪師匠はそもそも上野師匠の名前を挙げることすらないままに、話題を次へと移していきます(坂爪師匠は上野師匠に薫陶を受けており、彼女に逆らえるはずもないのです)。
もっとも、これには補足が必要でしょう。本章で採り挙げられるのは岡村の炎上の件など、イデオロギーを置いても(フェミニズムが100%正しいと仮定しても)行きすぎだと言わざるを得ないケースが多い。坂爪師匠の主張はそうした過剰な個人攻撃への批判という、そこだけすくい取れば、納得せざるを得ないものです。
しかし、だからこそこの二章は本書の思想的ダメさを大いに示しているといえます。
上野師匠こそ暴言女王といってもいいような人物。いえ、フェミというのは(ツイフェミのみならず)基本、相手を口汚く罵るものです。そもそもフェミそのものが「差別されてきた者の逆襲」という「復讐史観」から成り立っており、それをよいこととして認める傾向にあるのです。
ツイフェミとフェミニストに一切の差はないと、ぼくが常日頃から言っているのはそのためです。
それでも敢えて「ツイフェミ」の問題点を挙げるとするならば、やはり「一人に対して大挙すること」でしょう。しかしこれとて個人個人がやっていること。主観では、「群れなし襲っている」感覚は(ネットではなおさらのこと)希薄であり、デモをやって喜ぶ「オフフェミ」よりマシだといえなくもない。
これを否定するとなると、ネットという誰もが情報の発信者になることのできるシステムの全否定ともいえ、また突き詰めると「大衆はモノを言うな」といった主張にもなりかねない。
「みんなでマナーを守ろう」くらいしか、言えることはないのです。
何しろ、坂爪師匠は北原みのり師匠をもツイフェミ扱いします(そう明言する箇所はありませんが、流れからは同一視しているとしか、考えようがありません)。
北原師匠は矯風会をリスペクトしており、矯風会は「かつてから存在していたツイフェミ的なるもの」なのだそうです。坂爪師匠はホワイトハンズというセックスワーカー問題に取り組むNGOの代表を務めており、矯風会がお嫌いなのでしょうが、こうなるとツイフェミの定義すらもメチャクチャです。
北原師匠、言うまでもなく(学術的な地位はないものの)いくつも著作があり、本書の記述にもあるように、『日本のフェミニズム』という、フェミ的にかなり重要な書を編んでもいるんですけどね。それに上野師匠とも交友関係があるし、上野師匠だって売春はなくすべきと言っているんですが……。
石川優実師匠もツイフェミです(これ自体は四章で言及されることですが)。
確かに石川師匠はネットで大いに暴れている方ですが、まずあの人の著作や主張は、編集者など、ブレーンとなる人物、つまり出版社側の意向が強いと想像でき、また「クソリプ」を捏造するなど、その論調はある意味、ネットを悪だとする坂爪師匠と近しいもの(師匠自身もここを認識し、ツイッターで言い訳めいたことを言っていました)。
結局、「自分にとって都合の悪いフェミ」を、切り捨てようとしているだけなのです。
さらに驚くべきことには、坂爪師匠は「ツイフェミの最大の憎悪の対象はフェミニズムそのものだ」と主張するのですから。著名なフェミニストの記事などがよくツイフェミによって炎上するのだそうです(ぼくにはあんまりそういう印象がないんですが)。
まあ、フェミなんて内輪もめばっかりやってる連中なんだから、そうかもなあとしか思えませんが、さらにさらに呆れたことに師匠はツイフェミは「主流派になれなかった中高年のフェミニスト」が多いと言います。成功できなかった者の怨念がツイフェミを動かしているのだそうです。
ツイフェミ化した中高年女性のアカウントの中には、フェミニズムや社会運動の世界で主流派になれなかった人が少なくない。修士課程や博士課程で中退・挫折した人、アカデミックポストを得られなかった人、社会活動や労働組合、当事者団体への運営に失敗したと公言している人が散見される。
(111p)
いっそさわやかなまでの、弱者への憎悪が光ります。
以前も松山せいじ師匠の言葉として、近しい説を紹介しました(その時は「行き遅れ」といった側面が強調されていましたが)。そしておそらくこれらは、正しい。しかしだからこそそれを嘲笑うかのような坂爪師匠の筆致には、背筋が凍るのを感じずにはおれません。
さらに呆れ果てたことに、師匠は「ヒステリックなわめき」でしかなかった女の声を言語化したのが上野師匠を始めとしたフェミニストだったのだとまで主張します。
左派とは、「大衆を憎む選民主義者」であり、左派がフェミニストに思慕を募らせるのはフェミニストを「エリート女性」だと勘違いしているからなのですが、そこをここまであどけなく吐露した文章を、ぼくは初めて読みました。
本書を読んでもミソジニストの定義は書かれていませんが、一つだけはっきりしていることがあります。
ミソジニストとは、坂爪師匠(に代表される、左派)のことです。
本章の批判対象が、もし「フェミニズム」そのものであったなら、ぼくは師匠を大いに褒めたでしょう。
しかし師匠は「ツイフェミ」と「フェミニスト」を「分断」しながら、しかしその両者のどこが根本的に違うのかを語らない(ないし、語ろうとして失敗している)。
北原師匠や石川師匠までが「ツイフェミ」なら、もう誰が「真のフェミ」なのかわからない。
これはぼくたちが、「表現の自由クラスタ」の言動として、非常に見慣れたものではないでしょうか。
・第四章 エロ規制が許せない
ツイフェミ叩き、第二回戦です。
本章では『宇崎ちゃん』問題や、それ以前の萌え絵を中心とした炎上事件が総花的に語られます(オタクとは関係のない会田誠の絵画展が「全ての発端」として仰々しく挙げられているのは、何か笑っちゃいますが)。
ここでは「表現の自由クラスタ」のことを「ツイッターバーサーカー」と称し、「ツイッターアマゾネスvsツイッターバーサーカー」といった節タイトルがあったり(前者はツイフェミのことですね)、またフェミニスト側の「女性差別」という言い分と表現の自由クラスタの「表現の自由」という言い分が噛みあってないと指摘するなど、一見中立っぽく見えるのですが、やはり基本は「表現の自由クラスタ」に親和的。
その意味で、他の章に比べて比較的、頷ける主張もなされます。
「規制派」がクレームによってポスターを撤去させるなどの「成功体験」から図に乗ったのだなど、「社会運動」の負の側面が指摘されている部分もなかなかいいのですが、しかしNGOの代表がそれを言うのはどうなんだとの疑問が、またしても頭をもたげます。
また、「オタクの立場が弱いので叩きやすいのだ」といった指摘もあり、山口貴士、ろくでなし子、柴田英里各師匠といった「お察し」な面々の名を(この人の文章は全編に渡って本人のスタンスが曖昧模糊としていて理解しづらいのですが、恐らく)肯定的に採り挙げたりもしています。
ただ、肝心の「萌えキャラ、ないしエロは女性差別だ」とのフェミニズムの第一義に対する坂爪師匠のスタンスは、明示されません。
ツイフェミや表現の自由クラスタの言い分を延々と並べ、その陰に隠れて折に触れて「ツイフェミ」を攻撃しつつ、問題の根本についてはついぞ立場を明確にしない……というのが本章における坂爪師匠のスタイルです。
フェミニズムを正しいとするならば、当然、「ツイフェミ」の「萌えキャラバッシング」を支持しなければならない。その矛盾から身をかわし、第三者面をし続ける。
もちろん言うまでもなく、ここは青識亜論を代表とする表現の自由クラスタにも共通した点で、ぼくが彼ら彼女らを信頼できないとする、一番大きな理由でもあります。
――しかし、ともあれ、坂爪師匠はオタクの味方とは言えるんじゃないか。
う~ん、そこがどうも微妙なんですね。
何しろここでは、「オタクは右派と親和性がある」とのお約束の物言いがなされています(203p)。その理由として出されるのが、「オタクはロボットアニメなどバトル物が好きだから」という、もう、数十年ぶりに聞いたような、バッカみたいなもの。
いえ、それだけではなく、フィクションを楽しむ、言わば全てを「ネタ」とする相対主義は、「教条的な」リベラルと親和性が低く、また「歴史修正主義」である右派との親和性が高いとの、トンデモない主張もなされます(204p~)。
スゴすぎます。
まあ、「右派は歴史修正主義者である」というのは、この人にとっては絶対に動かせない「真理」なのでしょうから、そこは置きましょう。しかし普通に考えて、「価値相対主義」は本来、リベラルの武器だったはずだし、仮に右派が歴史を修正したとしても、修正後の歴史は絶対視されるというのが坂爪師匠の言い分のはず。全くリクツにあっていないのです。
また、ここで師匠は国家そのものが幻想である以上、歴史もまたある種のフィクションであるとし、以下のように言います。
こうした保守派のスタンスに対して、「実証性が欠如している」「歴史修正主義だ」という批判をしたところで、あまり意味はない。左派の得意技であるファクトチェックに基づく批判が効かないのだ。
(203p)
さすがにここにはひっくり返りました。
頭に一本も毛が残ってないヤツが「俺はハゲじゃない」と言い張ってるようなものです。一体全体、何を食べて育てばここまでも輝かしい自己イメージを保ち続けることができるのか。
また、オタクはオカマとも親和性があるとも書かれます。その理由は……はい、ご想像通り、女装コスプレや男の娘ですw
リアルな女装者が「男の娘」を自称するのをオタクが苦々しく思っているなど、常識なのですが、表のメディアには決して伝わりません。それは、言うまでもなく表のメディアでは「オカマ絶対正義論」が揺らがぬ真理と捉えられており、オタクも世間のコンセンサスに沿った言説を吐かざるを得ないからです。
この二点(「オタク右派論」、「オタクはオカマが好き論」)は挿話的に語られるのみで、正直、全体的に解釈に苦しむ部分の多い本書の中でも特に意味不明なのですが(そしてまた、普通に考えればこの二つの主張にはあまり親和性がないのですが)、前者は本音をポロリと漏らしたもの、後者は取り敢えずPCに則った発言をしてみたものと想像できます。
つまり、「オタク右派(というか、ノンポリ)」は、坂爪師匠の中の位置づけとしては、「ツイフェミ」と同じであるように思われるのです。
師匠は実のところ女性やフェミニストの中でも地位の低い者たちを深く憎悪軽蔑しつつ、政治的理由からフェミを持ち上げている。それと同様、大衆としてのオタクは深く憎悪軽蔑しつつ、業界に近いオタク、つまり「表現の自由クラスタ」のことは政治的な理由から擁護している。
それが、この文章から仄見えているのではないでしょうか。
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