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ジェダイト    「泣け! わめけ! 男がいなければ何もできぬのか。所詮女などは浅はかなものよ。ハッハッハッ」
セーラーマーズ「今どき女よりも男のほうが偉いなんて言ってるのは、オジさんだけだわ」
セーラーマーキュリー「そうよ。女を軽蔑するなんて封建時代の名残よ」
セーラームーン「男女差別はんたーい!」
三人「戦うべきは、傲慢な男、ジェダイト」
セーラームーン「女の子をバカにしないで、女の子はいつも泣いているばかりじゃないんだから」

 本書に引用された台詞をまず、お送りしました。
 これは『美少女戦士セーラームーン』(無印と俗称されるファーストシリーズ)13話「女の子は団結よ! ジェダイトの最期」の決戦時のやり取り。敵の大幹部ジェダイトとの決戦編であり、山場ではありますが、五年に渡る長寿番組になった『セラムン』の中では本当に序盤も序盤のストーリーです。

 ――さて、今回採り挙げるのは稲田豊史師匠の著作。同じく師匠の著した『ドラ騙り』――じゃなかった、何だったっけ、忘れちゃった――前回まで書評していたご著作の前著にあたるものであり、『ドラレイプ』――じゃなかった、何だったっけ――そちらの方でもこの著作からの引用が度々なされている、姉妹編とでも言うべきご本のようなので、ことはついでと目を通してみたのです。
 そんなわけで本稿がでっち上げられたわけでありますが、最初に書いておくと、正直、前回のような煮えたぎる怒りは、本書に対しては湧いてはきませんでした。
 そりゃそうですよね、『ドラヘイト』――じゃなかった――アチラのご本はのび太をdisることで弱者男性を惨殺することが目的とされていましたが、となるとそれとは裏腹に、こちらはセーラームーンをageることで強者女性を賞揚することが目的であるのは、容易に想像ができます。そして一読してみれば案の定、『渡辺篤史の建もの探訪』と同じような内容が展開されていた――というのがまあ、結論なのですが、それだけではレビューになりません。ない知恵を絞り、何か評論するためのフックになる記述でもあれば……そう考え、探し出してきたのが上の箇所です。
 このやり取りを、我らが稲田豊史師匠は2pにも渡って引用なさっております(このページ以外、ここまでに長ったらしい引用はありません)。
「あーあ」以外の感想が浮かんできませんね。
 と言っても「あーあ」だけでは思うところが伝わらないかも知れません。『セーラームーン』、メジャータイトルとは言え、今では詳しくない方も大勢いらっしゃろうと思いますので、多少、詳しく解説していくことにしましょう。
 実は、人によっては意外に思われるかも知れませんが、『セラムン』において、ストレートな形で「男女差別反対」的な主張がなされたことはほぼ、ありません。上のやり取りはぼくが記憶する限り、唯一の例のはずです。
 何というか、本当に、おしゃれな女の子向けアニメで野暮なことはやってくれるな、というのがぼくの感想でした。
「相手はステキな美少年(と、挿入歌で歌われていました)」であるからこそ、セーラー戦士たちの戦いは華やかなのであって、それに、「おじさん」役をムリからにやらせることはあるまいと。
 で、何より、一番のアイロニーは、この「異色」なセリフをセーラー戦士たち(と、ステキな美少年)に叫ばせたのは富田祐弘氏だったということです。氏は本話を担当した脚本家で、当時で既に長いキャリアを誇るベテランだったのですが、正直、『セラムン』ファンからは評判が悪い人物でした。つまり、上のやり取りは新世代のアニメでロートル作家が書いたいささか「時代遅れ」なものであった、というわけです(更に皮肉なことに、本話の作画監督がやはり、そうした評判の悪い旧世代の人物、中村明氏であったことを、今、調べて気づきました)。
 しかし、それは、案の定、予定通り、まんまと、当時の『朝日新聞』の記事に引用されました。『セラムン』を「強い女」であると持ち上げる文脈で採り上げたくて仕方がなかった同紙が、このセリフを必死になって探し出してきた、というわけです。
 むろんそしてそれはまた、稲田師匠も同様です――いえ、もっとも、彼はこのやり取りに対し、根本では好意的に評価しつつも「類型的で大人が見るに堪えがたいセリフ」との感想を漏らしているのですが。また、この記述がある節のタイトルは「セーラームーン世代のフェミニズム(もどき)」とわざわざ(もどき)という言葉が付されています。正直、ここにおける師匠の真意は、今一わかりませんが、そこは後述することにします。
『セラムン』が放映されたのは92年から97年。バブルそのものは崩壊していましたが、その余韻がまだ色濃く残っていた時期です。「原作者」である武内直子氏がブルジョアであることも手伝い(また、本作がある程度上の年齢層の女性をも意識して作っていたことを考えれば、その論理的必然として)、作品にはバブル的豊かさが溢れていました。
 言うまでもなく当時は均等法導入直後であり、フェミバブルもまた起こっていた。今となっては想像しにくいほどに、当時の週刊誌等メディアでは「女が強くなった、強くなった」と病人のうわごとのように繰り返されていました。CMではOLが「おじさん」の上司を圧倒する、みたいなのがやたら流れていました。今ちょっと思い出せるのを挙げると、『SPA!』だか何だかの当時のキャッチコピーで「女にリードしてもらった方が楽だと、時代が言い始めた」みたいなのが確か、ありました。
 恥ずかしすぎてこっちの方が耳まで真っ赤になっちゃいますね。
 セーラームーンはそうした文脈の中でこそ、登場し得たのです。
 師匠の主張もまた、それと本質的な部分では同じです。何しろ彼はセーラー戦士と「コギャル」とが同根だなどと言っているのですから。
 以降、森高千里だ、SPEEDだ、赤名リカだと当時のアイコンが並べられていくのですが、(本当に、本書を読んで初めて知ったのですが)SPEEDって小学生とかにあからさまにセックスの暗喩の歌を歌わせていたらしいんですね。そういうのってどうなのかなあ。まあ、子供とのセックスをよきこととするリベラル君たちには無問題なんでしょうが。
 そう、この時期は長らく「女の時代」などと呼ばれていた。
 その実態は、極めて空疎なモノであったとぼくは考えますが、師匠の見方はまた違うように思えます。先の「男女差別はんたーい!」へのアンビバレントな評価は、本書全体から推察すると、「肩肘張って男に対抗するのではなく、自然体で戦う戦士」とでもいった師匠の「セーラームーン」観に端を発していると考えるべきなのかも知れません。「セーラームーン世代」とやらを以下のように評価している辺りに、そこは表れています。

 セーラームーン世代よりも上の団塊ジュニアやバブル世代のように、「男には負けない」ことが前線を志向する理由ではないのだ。
(109p)

「女を捨てねば男に(仕事で)対抗できない!」的な、一部世代のノイローゼじみたい強迫観念とは、当然ながら一切無縁であり、通勤ファッションや仕事で使う文房具に至るまで「女子性」をキープしようとするのは、セーラームーン世代の好ましき美点であろう。
(110p)

 またセーラームーンの変身は「ムーンプリズムパワー・メイクアップ」と呼ばれるのですが、一体全体どうしたことか、師匠はこれを以下のように評します。

 この「飾らない素の自分こそが魅力的なのだ」という強い自己肯定感は、セーラームーン世代に含まれる「ゆとり世代」の特徴と、良くも悪くも共通する要素である。
(98p)

 リップが光ったりコスチュームに身をまとっていく演出など、「メイクアップ」がお化粧のメタファであるのは自明で、「飾らない自分」という言葉とは180度違うのですが(師匠は「変身」は「機能強化」であって「機能変更」ではないから飾ってはいないのだと支離滅裂なことを言うのですが)、この論理の乱れも上の女性観を鑑みれば納得がいきます。
 かつての「女を捨て、男並みになろうとしたウィメンズリブ」などではなく、「女性性を捨て去ることのない、しなやかなフェミニズム」。口が腐りそうな甘言ですが、当時のフェミニストたちは確かに、そうしたイメージ戦略を取っていた気がします。もっとも同時期に彼女らは「ジェンダーは虚構なのでリセットすべき」と言っていたのだから、結局はメチャクチャなデタラメでしかないんですけれどもね。

 本書二章では、『セラムン』の敵キャラについてページが割かれます。
 本作の第二期、『セーラームーンR』の敵勢力の幹部勢あやかしの四姉妹やエスメロードを、師匠は罵倒します。ファーストシリーズの敵幹部が「ステキな美少年」であったのに対し、彼女らは「大人の女」です。エスメロードの体現する「ジュリアナ」的風俗など、バブル的な女性像を、師匠が否定すべきモノとしているのは意外と言えば意外でした。恐らく当時の『セラムン』はそれこそ「ジュリアナギャル()」とそれほど違わない位相で捉えられていたはずで、またコギャルもそれに連なるモノとしか考えようがありませんから。
 また、第三期『セーラームーンS』の幹部勢ウィッチーズ5は明らかにリアルなOLそのままの描かれ方がなされており(作戦行動中は普通の人間の格好をしていましたし)、これは『セラムン』が「バリキャリ女子」の上昇志向を否定しているのだとご満悦。ここも意外と言えば意外なのですが、師匠にとっては過剰な競争指向が否定されるべきモノなのでしょう。
 第四期『SuperS』に登場した悪の幼女軍団アマゾネスカルテットも「成長を忌避する存在」として全否定。この辺は、まあ、そんなに外したことは書かれていないのですが、笑ってしまうのが以下の下り。

 このように大人を嫌い、“純粋(ピュア)”という魔法の言葉を盾に幼児性が抜けない「コドモオトナ」は、昔も今も世に溢れているが、そういう存在にセーラームーンたちはまさしく“お仕置き”の鉄槌を下す。モラトリアムのなかで自ら成長を止め、成熟した大人を自分の理屈で小バカにし、(失敗するかもしれない)夢へのチャレンジを回避し続けて生きる彼女たちに「そんなことはない!」と教育的指導を行うのが、セーラームーンたちというわけだ。
(70p)

 リベラル君というのは言うまでもなく、オタク文化を自分たちの政治的主張のために利用することを使命とする存在ですが、この牽強付会ぶりにはさすがに笑ってしまいました。
 セーラー戦士たちの敵は、「ステキな美少年」に始まって年上の女、オカマと続き、「年下の少女」であるアマゾネスカルテットは悪い言い方をすればネタが尽きての苦し紛れとでもいった感があり、(当時見ていた記憶で書きますが)師匠の主張通り「モラトリアム」の体現者ではあったでしょうが、そこまでテーマ的に掘り下げられたキャラクターとは言い難かったように思います。
 そこを、師匠は自説に無理やりこと寄せているわけであり、その強引さは今までご紹介した彼の言説からも充分、おわかりいただけることではないでしょうか。
 そして、このアマゾネスカルテットのボスとも言えるのがネヘレニア。
 師匠は彼女を「老いを恐れる美魔女」と評し、(ファーストシリーズのクインベリルも熟女と言っていい存在であり、少女が主役である以上、ラスボスが「大人の女」であるのが妥当であることは、多言を要しないでしょう)腐した後、驚いたことに以下のようなことを言い出します。

 ただ、『SuperS』の結末には重大な穴がある。歳を取り、もはや美が自分の手もとからすり抜けていったと感じている現実の女性(ネヘレニア側の女性)は、一体どんなマインドセットをもってそれを乗り切ればいいのか。その答えを『SuperS』は教えてくれない。
(74p)

 そんなこと、子供番組に教えてもらおうとするなよ……と言いたいところですが(「セーラームーンに学べ!」的な売り出し方がなされていたからか、本書はこうした妙な物言いが多いのです)、『セラムン』という作品全体を観てみれば、その答えは実のところ、極めて明快に提出されているのです。
 もっとも、師匠の読解力では理解できないでしょうから、それは後に説明して差し上げることにして、先を急ぎましょう。
 上に書いたように本書ではまず、敵勢力について述べられてから、第三章でセーラー戦士についての紹介がなされます。順序が逆でヘンな気もしますが、この種の番組は敵役が作品の性格を大きく規定する面もあり、それ自体はまあ、わからないではありません。
 わからないのは、肝心なセーラー戦士の紹介が極めて大雑把であることです。

 セーラーマーズ好きは、自己顕示欲の強い文化系女子の傾向がある。
(120p)

 とか何とか一人につき1p足らずでささっと述べられているだけ。
 しかしこれすらメインの五人だけで、セーラーウラヌスについては何と驚くなかれ、「セーラームーンとLGBT」みたいな節で僅か3行の記述があるのみ(!)。
『ドラ嬲り』もそうでしたが、ご当人はそれなりに作品のコアなファンであることが伺えるのに、その筆致はどこまでも薄っぺらなネット記事レベル、というのが師匠の最大の特徴です。
 五人について語るなら、例えばマーズが不人気、マーキュリーが人気だなど、いくらでも語ることはあるでしょうに(もっともマーキュリー人気は「大きなお友だち」にだし、マーズの不人気は原作におけるものこそが顕著でしたが)。

■よければ以下は聞きながら……。

 本書には「セーラームーン世代のアンセムとしてのエンディング曲」という奇妙なインターバルが設けられています。
『セラムン』と言われて一番に思い出す曲となると、四年に渡って使われ続けたOPテーマ「ムーンライト伝説」だと思うのですが、師匠はそれをドン無視、一体全体どういうわけかEDこそが白眉だと言い立て、一曲一曲について思い入れを語っていきます。
 ……と言いつつ、ファーストシリーズに使われていたED、「HEART MOVING」、「プリンセス・ムーン」については初っぱなから「当時の視聴者層の主流だった小学生女児の幼い恋愛感情に寄り添った」、「女児特有のプリンセス願望を汲んだ」「自己陶酔ソング」とバッサリ。いや、視聴者に寄り添ってるんなら、好ましい歌のような気がするんですが……。
 そして「乙女のポリシー」を持ち出して、「全EDのなかでも1、2を争うセーラームーン世代人気を集める、超絶名曲」、「溌剌とした自己啓発ソング」と大仰に称揚します(ちなみに本当にそこまでの人気曲なのかについての根拠は近年、CMに使われたということ以外には示されません)。

「女の子は男に守ってもらう、か弱い存在ではない。人生も運命も自ら切り拓くのが本当に魅力的な女の子だ」。
(86p)

 と、別段歌詞に書かれていないことを書き殴りながら大喜び。
「タキシード・ミラージュ」は「特筆すべきでない」「おのろけソング」と一蹴、「私たちになりたくて」も低評価。
 ところが「“らしく”いきましょ」を語る段になると、またしても小躍りを始めます。

 ここからわかるように、セーラームーンたちが体現する少女性とは、処女性やか弱さを売りにした「お嬢ちゃんぽさ」ではない。
(89p)

 そしてまた、最後のED曲「風も空もきっと」についても全肯定。何だか知らないけど男と別れた後の歌でありながら、前向きなところがいいんだそうな。
 更に言うと、あそこまでOPを否定しておきながら第五期『セーラースターズ』のみに使われた「セーラースターソング」になるや、またも大喜び。

 さらに、この曲のフルコーラス版は、聴く者の取り巻かれている状況によって、「離婚ソング」「不倫ソング」「おひとりさまでずっと生きていく決意ソング」にも受け取れる。セーラームーン世代が今こそ襟を正して聴くべき問題曲だ。(92p)

 などと絶叫します。ご記憶の方もいらっしゃいましょうが、何故『セーラースターズ』のOPの内容がこうしたものかとなると、それは本編のお話がセーラームーンの彼氏であるタキシード仮面が行方不明になったところに端を発しているから、なのです。つまり本編のストーリーを巧みに暗示させるよう書かれたのがこの歌詞だったのです。お話自体が「亭主」が行方不明な間、新たなイケメンである星夜クンとよろしくやるという、疑似離婚、疑似不倫といった趣もあり、その意味で師匠の指摘は正しいことは正しい。しかしそれは当たり前のことを言っているに過ぎないし、過度に称揚するのは(まあ、道徳上というか、子供番組としてみた場合)どうなんだという気がしなくもありません。
 ちなみに、先に冒頭の会話以上に長い引用はないと言いましたが、これら曲については、自分の好きなモノだけしっかり歌詞が掲載されています。
 しかし、このインターバルが明らかにしたのは、何よりも師匠の、先にも書いた「コンテンツの、自説への強引なこと寄せ」ではないでしょうか。
 本作の五年という放映期間の間、「セーラースターソング」が使われていたのは一年。師匠が称揚するEDと否定するEDの割合だって大雑把に言って3:2。要するに多くの曲の中から、師匠は自分の好みの曲だけを恣意的に取り出しては、『セラムン』の本質だと強弁しているのです。
 今更になりますが、実のところ師匠の誉める歌はぼくも大好きだったりします。「風も空もきっと」だけは何とも思いませんが、他の曲の持つ勇壮さ、前向きさに感銘を受けたその気持ち自体は、きっと師匠と変わらないはずです。一方、師匠の貶す歌について、ぼく自身、好きではありません。お姫さまがどうのこうの、夢の中で会ったことがどうのこうの言われたって、男の子の心には響きませんしね。
 だから、「好み」という点でぼくと師匠とは見事な一致を見ているのです。
 ぼくと師匠との違いは、「他者の価値観を否定せずにはおれない」か否かです。
 お姫さまソングだって女の子の夢を語っているのだから、師匠も先刻ご承知の通り、セーラームーンは「お姫さま」なのだから(知らなかったらすみません)、それを否定したってしょうがないでしょう。
 この辺りで、みなさんもおわかりになったかと思います。
「他者の価値観を排撃する」のはリベラル君の本能なのだから、責めようとは思いません。
 しかし師匠はセーラームーンの「ありのまま」が好きなのでは決してないのだ、ということは、指摘しておかなければならないでしょう。
 彼女らの中から、自分の好みにあう部分だけを目を皿のようにして選り分けて、称揚しているのだと。
 自らの政治的意図に、コンテンツを利用するため、に。

 実のところ、何しろ、懲りもせず本書でも師匠はのび太を攻撃しているのです(時系列からするとこっちが先ですが……)。内容はむろん、今まで繰り返しご紹介したことと全く変わりません。

 ひと言で言うなら、「のび太のように生きてもいいんだ」という空気が、現在の30~40代男性の間には漂っている。
(137p)

 二者の決定的な違いはこうだ。セーラームーン世代は「自分がセーラームーンたちのように強くなりたい」と思っているがのび太系男子は自分が強くなりたいとは思っていない――これに尽きる。
(139p)

 そしてタキシード仮面を「のび太男子」世代であると強弁し、だから受動的だ、そしてのび太も「毎年、劇場版で、事件に巻き込まれるから」受動的だとの、ナゾ論法。

 ネコ型ロボットという最高のお世話ロボットを待ち続け、「ことに挑む」際も常に受け身ののび太系男子、ここに極まれりだ。
(p195)

「げ……劇場版じゃドラえもんは助けられるお姫さま役のはずじゃ……?」
「セ……セーラームーンも強引に変身させられたんだから受動的じゃ……?」
 などと、主張する度にいくつもいくつもツッコミ所がたちどころに浮かんできてしまうのが師匠流です。
 もうおわかりかと思います。
「男がだらしない、しかしそんな男たちを一蹴し、颯爽とする女たち」。
 そうした、バブル期に佃煮にするほど溢れていた、「女の時代」を称揚する無内容な週刊誌記事。
 本書はそれの、見事なまでのリプレイです。
 そう、「女は強くなった」はずだったし「世界を手に入れる」はずでした。
 師匠がセーラームーンと並べた赤名リカにしても、前も指摘したことがあるのですが、この人がドラマ内で男性をセックスに誘ったことが、後年何年にも渡って「女性が性に積極的になったこと」の根拠として使われていました。「フィクションの、たった一例」を根拠にしている時点で、もうお察しなのですが、当時は誰も疑問に思わなかったのです。
 それが、なぜこんなことになってしまったんだ?
 いつも言うように、女性たちは政界にさほど進出するでもなく、経済をさほど動かすでもなく、主夫を養うでもなく、一方、本人たちも婚期を逃して、やり場のない「女子力」をこじらせ、何だかパッとしない存在になってしまいました。
「セーラームーン世代」というのがもしいるのならば、それは願い叶わず、自分たちは割りを食った世代だという被害者意識まり、その鬱屈をおおむね弱者男性に向け「社会正義」の旗印をエクスキューズに私怨を爆発させ、押し寄せる劣等感と吐き出すルサンチマンの出納業務で、毎日が忙殺されている人たちではなでしょうか。
 フェミニストそのものですね。
 わかりにくいので書いておきますが、上の赤文字は『ドラ殺し』において師匠の書いた「のび太系男子」評から引っ張ってきたモノであります。
 そんなわけで本書は「強い三次元女子」に萌える変態どもの「夢よもう一度」企画、バブルの頃を思い出したい人々の「懐かし企画」である、とまとめれば、いろいろと見えてくるモノがある気がします。
 ――さて、気づくともう随分と文字数を使ってしまいました。
 先に「それは後に説明して差し上げることにして」と書いたことについても、その機会を設けられないままになってしまいました。
 というわけで、続きは次回ということで……。