世界が第三次世界大戦(核戦争)の恐怖に苛まれる頃、人類の滅亡をテーマにした小説はたくさん作られ、たくさんのヒット作が生まれた。
人間には、破滅願望というわけではないのだが、そういう自らの不安を描いてくれる小説を読みたくなるという天邪鬼な傾向がある。
そこで今回は、その構造について考えてみたい。


なぜ、人類の滅亡を恐れる人々は人類の滅亡が描かれた物語を読みたいのか?
理由は、怖い物見たさということもあるだろうが、それ以上に、そういう物語を読むと「安心」するという心理的な構造がある。

小説の一つの特徴というのは、それが「フィクション(嘘)」だと知っていながら読むということだ。それでいながら、物語に熱中し、主人公に感情移入して、ハラハラドキドキする。
このとき、フィクションの中に自分の不安が描かれていれば、人はそれを「嘘」だと受け取る。そうして、現実世界ではそれが起こらない――というふうに認識するのだ。

なぜかといえば、「等価交換心理」が働くからだ。フィクションの世界で描かれていれば、それは現実には起こらないと思ってしまうのである。
人間には、「対立する何かと何かは等価交換である」と考える傾向がある。それは、例えば「胸の大きな女は頭が悪い」といったふうに、何の根拠がなくとも、なんとなくそう思ってしまう。
この力が、小説でも働く。フィクションの中に人間の悲惨な末路が描かれていれば、現実ではそれが起こらないと思うのだ。

人間というのは、例えば最初の子供が男の子だったら、今度は女の子が生まれるような気がする。あるいは、ルーレットで赤が続いたら、今度は黒が来そうな気がする。
それらは、実は気のせいに過ぎない。しかし人間は、この気のせいから逃れられない。だから、人類滅亡が恐れられる時代には、それをテーマにした小説が流行る。なぜかといえば、それを読むことによって、現実にはそれが起こらないという安心を得られるからである。

この「等価交換心理」の応用系に、「犠牲」という考え方がある。人間は、誰かが酷い目に遭うと、自分は酷い目を「免れた」と思う。例えば、誰かが殺されたというニュースに触れると、「自分は助かった」という思いを抱くのである。
だから、ニュースというのは人の不幸を扱う。多くの人がそれを見て安心するためだ。死んだ誰かを見て、それ以外の人が「自分の代わりに犠牲になってくれた」とホッとするのである。

小説には、そうした「犠牲構造」を喚起する力もある。物語の登場人物が酷い目に遭ったとき、人はそれを「自分の犠牲になってくれた」と思うのだ。だから、登場人物が酷い目に遭う小説が、名作として語り継がれる。

この法則を、ライトノベルに応用しない手はない。ライトノベルの主な読者は、若い男女だ。その若い男女が今最も不安に思っていることをテーマに取り上げ、それが現実化する物語を書くのである。そうすれば、大きなヒットにつながる可能性がある。

しかも、そうした内容はおそらく出版社や著者の間ではタブーになっているはずだ。なぜなら、ライトノベルの出版社や著者は、「読者は不安の多い日常から逃れるためにライトノベルを読むのであって、そのため彼らの理想を叶えるような内容にしなければならない」と思い込んでいるからだ。

しかし実際は逆である。読者は、自分が恐れるような内容ほど読みたいと思うのだ。そうして、そこで安心を得たいのである。日本のほとんどの出版社や著者は、そのことが分かっていない。だから、読者が恐れるような内容を書くことは、大きなチャンスともなるのだ。

そこで次回は、実際にどういうことをライトノベルの読者は恐れているのか?――ということについて考えていく。