蔦文也は20年間甲子園に出られなかった。そしてその間は揺れ続けていた。

1960年から3年間、県予選を勝ち抜き、甲子園まであっと一勝、もしくは二勝という期間が続いた。この間に、池田町民の期待は一気に盛り上がる。時代はまさしく高度経済成長のど真ん中で、池田の町も好景気を謳歌していた。その波に後押しされ、町民たちは自分たちの町にも誇れる何か、あるいは娯楽を求めたのである。

その娯楽として高校野球は最高だった。というのもこの頃、戦後の復興とも相まって、ちょうど野球人気が頂点に達しつつあった時期だからだ。

折しもプロ野球では1958年、長嶋茂雄のデビューで盛り上がっていた。高校野球では、同郷である徳島商業の板東英二が、1958年に夏の甲子園で不滅の大記録となる大会83奪三振を記録し、準優勝を遂げていた。

この板東の活躍で、徳島県の高校野球人気はかつてないほどに盛り上がった。そうして池田高校は、なに