1936年の2月に、石原莞爾は武藤章と協力して二・二六事件を鎮圧した。このとき、中心的な働きをしたのが石原と武藤だった。そうして一度は協力関係を築いた二人だが、すぐに袂を分かつことになる。
二・二六事件の後、武藤は関東軍――つまり満州へと異動になる。赴任後、内蒙古(モンゴル)の分離独立工作を担当することになった。モンゴルを中国から切り分けて、中国自体の弱体化を図ろうとしたのだ。満州と同じように、モンゴルを中国から分離独立させた上で日本に取り込もうとしたのである。
この工作を、はじめは田中隆吉という大佐が担当していたが、神経衰弱にかかってしまったため、代わりに武藤が担当することになった。つまり、それだけ神経をすり減らす仕事だった。さらにいえば、武藤はそれだけ肝が据わっている男であった。それは、自他共に認めるところだった。彼は単に頭が良いだけではなかった。それゆえ、二・二六事件でも力を示すこと
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