茶室は戦国時代に都市部の町家(商家が立ち並ぶところ)で、豊かな町人たちの間で発展した。市中の人工の建物が林立するところに、朽ちかけた山奥の農家(侘び寂びの理想)を写し取ろうと、小さな庭つきの応接小屋を建てたのが始まりだ。

町家は、通りに面した間口はだいたい商店になっているため、人々はその奥に住んでいた。それで、家に入るには間口の脇の、細い道を通っていかなければならない。今でも、京都の町家などに残る人二人がようやくすれ違えるだけの細い道である。

これを昔は「通り道」といって、そもそも商人たちは小さな庭として飾り立てることを好んでいた。それが、やがて茶室が流行って屋敷の最奥にそれが設けられるようになると、そこに至る道を、茶室の庭としての役割も兼ね、「山寺へと至る道」に見立てるようになる。屋敷の奥に、山中に佇む古屋のミニチュアを作ろうとしたのだ。

その「道兼庭」を「露地」と呼んだ。今でも、建物が