飛躍 前編

d95b7bab3d829c2b62f0501cceb56f2e26219a86 時は日本のバブルの真っ只中、買ったエメラルド
 原石が磨くと日本人宝石商相手に倍ばいゲーム
 で売れた。もっとも彼らはそれを日本で倍から
 三倍で売っていた時期である。

 我々エスメラルデーロにとって倍売りはあたりま  えだから三倍にも五倍にもなるような掘り出し物  を入手せんと、どんなところにでも出かけて
いった。今でも忘れられないのは五万円程で買った並みの色の三キャラ石が研磨した後で
とてつもない輝りを発光し百万円ぐらいに大化け したことだ。十倍ぐらいに化ける石はたまに
は有るが、二十倍あるいはそれ以上に化ける事は仲間内でも本当にまれであった。
なるだけ投下資本の回転を早め効率化させる事により手持ち資金は雪だるま式に倍増して
いった。始めた時のわずか二千数百ドルの初期資本がアッという間に増え、翌年には当地で
五百万円もしたトヨタのジープ、ランドクルーザーを新車で購入できた。
そういう時期に日本の大手宝石輸入販売会社の溝端貿易の社長がボゴタに私を訪ねて来て、
私の第一号の輸出客となった。
原石からカット(研磨ずみ)石まで精通している私を評価してくれたのだ。

早速に会社設立の運びとなり、ここに私のエメラルド輸出会社が羽ばたいた。
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途中、紆余曲折はあったが輸出額は順調に伸び、私の輸出事務所のお客の数が徐々に増えて
いった。彼らの商品買い付けのアテンド(応接)で一日中オフイスにつっきりとなり、
しだいに山(鉱山)に行く足が遠のいた。夜はよるで飲めや歌え(カラオケ)の接待で明け方
までの重労働をこなした。まさにエメラルドカウボーイからバブル紳士への変身であった。
そのかいあって間もなく業界の大手となり、数年後にはコロンビア一のエメラルド輸出商
(同様世界一でもある)となって取引所もコロンビア・エメラルド・センターと改名した。
その間オフイスも三度ばかり代わり最終的にはビルのワンフロアを占める広大なロケション
となった。
お客のカット石買い付け金を商品の売人に現金払いするためには多額の資金を要した。
一人のお客の一定額の買い付け(例えば10万ドル)が二・三週間で終わると、それを輸出
してL/C貿易書類を銀行に提出し、銀行から輸出代金を受け取るのにまた数日かかる。
お客が買った商品代金の一月間程の立替払いと輸出手続きがわれわれの業務で、それの対価
として5~8パーセントのコミッションをお客に科していた。従って、全体では相当量の資本
が必要であった。一月分の全輸出額と同額ぐらいだ。
それでも資金に余裕ができると、余った金をエスメラルデーロ時代の友人仲間たちに高利で
貸付けていた。彼らは会社も持たず納税もしない一匹狼の闇商人だから銀行から融資も受け
られず月利五パーセントの街金融を利用していた。
こちらの裏で金を動かしていた方が本業の輸出業よりも税金を払わないぶんだけ得であった。
かくして濡れ手に粟のごとく貯まっていったバブルのあぶく銭をいろんなところに投資した。
またそれにともないコロンビアにおいて子供の誘拐の危険性が非常に高まってきたので海外
移住を考えざるを得ない状況でもあった。
まずは米国の居住権を取得する目的も兼ねロスアンゼルスの友人の旅行代理店に出資して
共同経営者になることにした。
なんと、バブル全盛期に何百軒もロスにあった日本人の旅行代理店のほとんどがバブル崩壊後
に潰れてしまったのだから如何に日本のバブルがすごかったか、いまの若い人たちには想像も
つかないだろう。
米国の居住権が取れると家族全員をロスアンゼルスに呼び寄せた。
エルモンテ、ウエストコビーナ、アーケデイアとロスのあちらこちらに移り住んでみて子供達
に早く米国に慣れるようにした。
その度に家を売り買いするので、ロスの中古住宅市場の状況がよくわかり不動産にも興味を
持つようになった。一軒の家を買うには幾日も費やし何十軒もの物件を見て回らなければなら
ない。とくに子供がいると学校状況が大事だ。また、それが家の値段にも反映するところが
米国らしい。
黒人居住区やヒスパニック地区の住宅が比較的に安いのは人種的というより学校のレベルに
起因しているところが大きい。
似たような人種構成地区でもアーケデイアは小中高とも学校のレベルが高いので住宅も高価で
あった。
家族が移住して落ち着いた頃、ロスのダウンタウンに大きなデイスカウントストアを買った。
デイスカウントストアと言っても品揃えはスーパーマーケットと同様に食料品と日用品が主で
商品仕入れが大変な仕事であった。安い商品を大量に一括買いするためにロスの問屋倉庫街を
毎日大型バンで駆け巡っていた。店のロケイションが貧困者が多い地域だったので盗難被害が
凄まじく利益はほとんど出なかった。現在でもそうであるが黒人やヒスパニック系の米国の
貧困層には全くもって泥棒が多いのである。
何度も万引き犯を捕まえてパトカーを呼んだが、本人が拒否するので警官は逮捕しない。
警官の言う理由がふるっている
“コイツを署にショッピーても弁護士がでてきて証拠不十分で起訴できねえ”
“店主のオレが証人じゃないか”
と私が言うと
“あんたに悪意でもってでっち上げられた、と裁判でコイツらはぬかすんだ。結局,タダ働きの
無罪放免さあ。アメリカは今やそういう民主国家なんだよ、Mr. ハヤタ。コイツらそれをよく
知ってるんだよ”
と警官は言った。
もっとも私の方でもたかだか5ドルぐらいの万引きの度、こういうゴミ屑野郎のために裁判所
に時間をかけて出向いているヒマはない。ガソリン代と駐車料の方がもっとたかくつく。
結局モラルの問題で、こういう商売は絶対に貧民地帯ではやってはいけないという事を
学んだ。清貧という言葉が日本にはあるが,“貧しくとも清く正しい人々”というのは日本だけ
にしか存在しない。むしろ、守銭奴の金持ちより今や低所得層の中産階級の人々が正直で
社会的に立派なのが日本だ。私はこの事を日本人としての最大の誇りとアイデンテイテイに
している。
さて家族をロス住まわせ私は単身ボゴタにもどり孤軍奮闘していた訳だが、金のある男の独身
生活が如何ようになるか想像に難くないだろう。まさしくさんざんプレイボーイ振りを
発揮し、ついには離婚の憂き目をみる事になった。自業自得でいたし方ない。
ともあれ離婚後はボゴタの大マンションで二匹の豹をはじめ数十匹のサルを飼って、超美人の
女子高校生ワイフと優雅な生活をおくっていたからなにをかいわんやである。
話を事業の方に戻すが、旅行代理店の連携が必要となって、日本は東京神田に支店を出す事に
した。ボゴタでも又中堅の旅行代理店を買い、その支店を同じ市内に出した。
まさに東西奔走であった。その傍ら不動産にも手を出し家の売買もやっていたのでこれはもう
バブル紳士の典型であったろう。
しかし最も大きく資本を投下したのはウオール・ストリートの先物取引で、数億円の元金で
数十億円もの取引をしていた。
かって若い頃株をやっていたが、信用取り引きでスイス銀行が簡単に十倍以上も貸してくれる
のでもっぱら手っ取り早い先物にかわったのである。だけどそれは実に危険で,バカげた事で
あった。なりゆきと結果は次章にゆずる。
そうこうしているうちに私のボゴタのエメラルド取引所の客数は増え続け、取引高も累進して
年間の輸出量が五十億円を超えた。
一年間の純利益が数億円になると、人間、マヒするものだ。私もその例外ではない。
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私はエメラルド開発鉱山を数カ所に持ち、三百人に及ぶ鉱夫をかかえた。
ロスのビバリーヒルズには数億円の大邸宅を構え、ハリウッド並みの大作映画を作った。
コロンビアでは千二百名の従業員を抱える警備会社も経営した。
そして、先物バクチで100億円を張った。

次章ではそういう私の人生の頂点を付けた後編をお届けする。
そしてその次のスーパー人生論では、“成功の秘訣”と“失敗の落とし穴”を飛躍の前編後編を
検証しながらお届けする。
           
つづく