c39ebf6d64efb8a2cff3dd48a663e52c12068bba6月梅雨明けの初夏の陽光が羽田空港の広大なグランドを強く射ている。私はヘッド フォーンを片手に真新しい純白の巨大なジャンボ機に近かずく。
パンアメリカン航空のアラウンザワールド(世界一周)第一便だ。当時はまだ珍しく低い空港ビルの屋上展望台には大勢の見物客がジャンボ機見たさに群がっている。機首下の前車輪のすぐ上に付いている接続ホールへヘッドセットの端子を刺し込んだ後、コクピットを呼び出す。
“キャプテン、そちらの調子はどうですか”
“グッド(上々だ)出発準備完了、いつでも押し出してくれ”
“ロージャ(了解)、それではブレーキをリリース(解除)してください”
“OK リリースed,レッツゴー”
と短い会話を機長と交わしたあとジャンボ機の前車輪に接続した三菱重工特別仕様の押し出し用四輪駆動トラクターの運転手に合図を送る。どでかい図体のジャンボ機が静かにすべりだしスポットアウトしたところでトラクターを切り離す。機首下のグランドに立つ私はそれを見届けた後、直立不動の姿勢で機上コクピットの機長に親指を立てたゴーサインの合図を送り、最敬礼で送り出す。
従来の大型機百二三十人乗りのボーイング707やDC10と違ってジャンボ機の地上はるかに高いコクピットの機長のスマイルはあまりはっきりと伝わってこない。ランプウェイ(航空機専用通行路)をのんびり走るジャンボを尻目に私は同僚の仲間二人とハイエースに乗り込みグラ ンドを横切り海岸壁に近い空港の端っこにやって来た。いきよい潮の香りが我々をおそう。それまでの緊張したあわただしい激務からの疲れをほぐしてくれて心地よい。解放感がドッとでる。ランウェイを猛突進するジャンボ機が余裕を持ってランウェイの端からはるか手前で機首を上げテイクオフ(離陸)した。
一定の 上昇角度を保ちはるか数千メートルの上空で緩やかな上昇角度に移る。その後しばらくして水平飛行に移るまでは我々ラインメインテナンスの整備士仲間は気が休まらない。いつ飛行機に異変が起き上空でUターンして戻ってくるかわからないからだ。ジェットエンジンから火が出るのをはじめ重要計器の不良作動が原因で、テイクオフした飛行機が引き返すケースは珍しい事ではない。最悪のケースは墜落だ。離陸後の15分間が勝負である。もっともエンジン爆発や失速で墜落、死の大事故をひきおこすのは離陸後の3分間がキー。私が扱った飛行機でボーイング707機のジェットエンジンに離陸直後、羽田沖の鴨の大群がジェトエンジンに飛び込みエンジンのパワーダウンをまねき引き返してきた事があったが、これは非常に珍しいケースだった。最も滑稽なのは離陸後の航空機から羽田沖にバッゲージ(手荷物)がバラバラと落っこちてきたケースで、航空機腹の扉を閉め忘れた同僚は減俸の大目玉をくらった。貨物専用航空機が荷を満載した時もそのテイクオフに一抹の不安が募る。ランウェイを目一杯端っこまで駈けてやっとこさ機首を持ち上げノロノロと上昇していくさまはそれを扱ったライン整備士をハラハラさせる。私がボゴタ在住の時、エンジンパワーの弱い古い航空機が離陸後上昇しきれず、ボゴタ空港の前方に位置するモンセラーテ山のほぼ頂上近くに激突 し五十人あまりの乗客が全員即死という航空機事故があった。あと10メートルも上昇しきっていれば救われたのに、アーメン。
我々ライン整備士はこうして一服しているのも仕事の延長とはいえ半分はサボって、ジャンボ機が空の彼方に見えなくなるまで車の中に座っていた。隣の二人は 先ほどからしきりに釣り談議に没頭している。時々私にも声を掛けてくるが私はうつろにあいずちを打つだけだ。なぜなら私の想いは遠く彼方の中米コスタリカ にあった。


 私がこのパンアメリカン航空会社のライン整備課にノースウェスト航空会社の同じライン整備課から移籍してきたのはこの一年も経たぬ前の事だった。二年間勤務したノースウェスト航空の整備課で一日も早く米国連邦航空局(F.A.A)のエアクラフト・メカニック・ライセンス(日本における一等航空機整備士ライセンスにあたる)なる物が欲しかった。三年経たぬとその受験資格は無い。そこで、それまで運行部も含め五年もいたノースウェスト航空には義理を欠くが隣のハンガー(駐機場屋内で整備課のオフイスがある)のパンナム(パンアメリカン航空)にかけこんだ。給料は貴社規定の初任給から初めても良いから入社早々にでも経験三年者としてF.A.Aのライセンス試験をうけさせてくれ、と。そのオファーのメリットがあったからか定かでないが二つ返事で採用してくれた。給与レベルは両社とも似たようなもので私は一万円ほどの月給ダウンとなった。当時 七万数千円の給料が六万数千円になった。でも、そんな事は私にとってどうでも良かった。
とにかく、時のパンナム整備課課長のオヘイゲン氏は太っ腹であった。私の履歴書を見て
“あんたはノースウェストの運行部から整備課に移籍する前に二年間も大学の工学部で勉強した、これを経験と見なして三年以上の受験資格者としてあんたを私からF.A.Aに推薦しよう”
“がんばって精進し将来パンナムの整備課を背負うようになってくれ”
と激励した。
航空会社の運行部は文科系職場では最も給与レベルの高いセクションであったが、特に専門的技術が身に付く訳でもなく割と飽きっぽい性格の私にとって今度はライン整備があこがれの対象となっていた。移籍の希望を運行部部長に告げると、それにはどうしても前に航空機整備に携わった経験がいる、自衛隊での航空機整備や小型飛行機の整備経験でもよい、と言われた。それでは、大学の工学部に夜間部でも二年間入り直してきたら受け入れてくれるか、とさらに食い下がった。
整備課課長と何やら電話で話をした上司は私に
“君はこれまでノースウェストで真面目にがんばってきた、特に規定はないが、結構だ、 工学部修了で受け入れようと先方が合意した”
と告げた。
当時、文科系なら夜間部はどこにでもあったが、夜間の工学部がどこかにあったか記憶に無い。いずれにしても、高い私立大学の授業料は結婚したて家庭持ちの私には払う余裕が無い。たまたま羽田空港に近い鮫洲に東京都立工業短大があるのに気ずき、受験勉強を七年ぶりに再度やり直し挑戦した。この学校は前身がトップレベルの高専で合格ラインは高かったが、無事入学できた。話の解る上司に頼み勤務時間を夜間シフトの9pm-7amに固定し、一週間の勤務スケジュールも週末連続の木金土日の四日にしぼり、週間労働時間の40時間をこなした。昼間の学業と夜間の労働で身体を壊す事無く二年間も無事にこなして来れたのは上司の小川氏のおかげもあったが多分に協力者である結婚相手の典子嬢のおかげと感謝している。しかし、その彼女とも無念の別離を迎えた事はとても悲しい事であった。私はよくよく出来の悪い男だと思った。
この学校を無事卒業でき、約束どうりライン整備課に移籍できた。それからは希望に燃え一生懸命仕事をこなし、ライン整備マニュアルを勉強した。一度これと決めたら一途に突っ走る私の性格で、勉強で自信のついた私は一日も早くライセン試験を突破したかった。ライセンス取得の目算はこれを手だてに米国へ移住する事でもあった。しかしながら、仕事の経験実績は乏しく高度の仕事技術に自信が無い私は、出来損ないの整備士に違いなかった。私を採ってくれたパンナム整備課のオヘイゲン氏は入社3ヶ月めに私が試験に 挑戦して運良く合格しF.A.A の航空機整備ライセンスを取得した事を“世界一早い合格者だ”と大変喜んでくれたが私にはそれに見合う仕事はできなかった。それはそうだ、普通日米ともこれを取得する整備士は経験を十年ほど積んだベテランの整備士で飛行機の事なら何でも知っているというレベルの人たちである。私の今後の課題はこれに見合うレベルの技術を早く身に付ける事であった。
しかし合格して間もなく私自身の心境に異変が起きた。一生整備士として人生を全うする事に自信がもてなくなったのである。これはまさにあの時と同じであった。三年間の高校生時代を通じ“海の男”船乗りになるべく商船大学か水産大学を目指し受験勉強して、東京水産大学にも劣らぬレベルの学費生活費全額給付の農林省水産庁所属の下関水産講習所に現役合格した。いよいよ明日入学式に出かけるという段階になり、急に心境の異変をきたした。とても一生船乗りで過ごす自信がなくなった。そして入学式当日に入学辞退の電報をおくった。また今度も同じく一生の天職としてやっていけるのか不安になったのだ。要は確固たる意思が持続できず、飽きっぽいのである。意志薄弱なのだろうか、あるいは自分に本当に向いた何かがほかにあるのだろうか、と自問した。自分でも哀しくなるが三十になるまでこんな調子でふらふらとやってきた。しかし、結論が先になるが、コスタリカで起った天にものぼる想いの高校生美女との恋を発端にはじまるラテンアメリカでのその後の人生には今日に至るまでまったく飽きることなどなかった。南米コロンビアのエメラルド原野で展開したエメラルド.カウボーイとしての冒険生活はまさに私の天職であった。たとえ途中で殺されていたとしても悔いはなかったであろう。
それはあまりにも多くの凄まじい事件が私の身の回りで起き、殺すか殺されるかの戦場にも似た波瀾万丈の人生であった。その合間に首都ボゴタに開業したエメラルド輸出センターは巨億の利益を私にもたらしたが、その全額を、冒険ならぬ宝探しにも似たエメラルド鉱脈開発の鉱山業に投資したり、ウオールストリートの先物ギャンブルに賭けたり、あるいは実録冒険映画を作り世界中で興行したりしてなくしてしまった。これまさに破廉恥冒険者のたぐいでもある。

つづく