取材者:渡部真
取材日:2011年3月28日
■町の職員として泊まり込みで働いた5日間
2011年3月28日、筆者が取材に訪れた宮城県七ヶ浜町では、児童館などで子ども支援活動が続けられていた。
仙台市の北東に隣接する七ヶ浜町は、津波の影響で町の面積の約4分の1が浸水。ライフラインの復旧も遅れ、当時はまだ深刻な状況が続いていた。こうした状況から子ども達への影響を危惧し、教員、保育士、学生ボランティアが「こどもサポートチーム」を結成。児童館などを利用して、小学校低学年の児童や未修学児を集めて、1日2時間ずつ「遊びの場」を提供していた。
まつかぜ児童保育館で実施していた「遊びの場」で出会った加藤淳子さん(当時39歳)は、七ヶ浜町の職員だった。3月11日からしばらく職員としての対応に追われた。
「私は七ヶ浜町の職員なんですけど、地震があった金曜日も仕事をしていました。ちょうどここの児童館も担当していたんですが、町内に3か所ある児童館をいろいろ回っていたときに地震があって、このまつかぜ児童保育館に到着したとき、津波がありました。その日は、津波の影響でここから役所に戻ることも、ちょっと難しいような状態だったんですが、なんとか戻りました」
七ヶ浜の地形は、仙台湾に突き出した格好で北・東・南側が海に囲まれている。「七ヶ浜」という地名は、海沿いに7つの集落があった事から名づけられた。そのため、仙台湾を襲った大津波をもろにかぶる事になってしまい、道路が使えずに一時的に孤立する地域もあった。
「そこからはいろんな地震や津波の対応で、気づけば4〜5日くらいは自宅に帰ることができずにおりました。当時は携帯も繋がらなかったので、子どもの様子や自宅の様子を細かく知ることもできませんでした」
加藤さんのご家族は、佑弥くん(当時3歳)と夫の3人暮らし。加藤さんが仕事をしている昼間は、実家の母親に佑弥くんを預けて面倒を見てもらっていた。夫も別の自治体職員だったため、やはり震災の対応で、しばらくは自宅に戻る事が出来なかった。
七ヶ浜町では津波の直後、しばらくの間は電子メールは繋がっていたという。その時に佑弥くんや実家の無事を確認していた。家族や親戚の地震直後の情報は、そのメールで知ることができた。
「預けていたのが私の実家は、役所の近くなんです。車で5分くらい。私の母が面倒を見てくれているし、何かがあればすぐ行ける距離なんで、会いに行こうと思えば会えるって気持ちもあって、ある程度は安心して任せられたんで、その時は自分の仕事に専念する事が出来たんです。
私のいる課の仕事は『救助部』となり、主に支援物資の受け取りですとか、炊き出し、その配送とかなどを担当していました。住民の方々、職員、消防団の方々の食事などの準備と配布ですね。もう4、5日ずっとおにぎりやおいなりさんを作っていました」
町の仕事といっても、本来の児童館を担当する業務ではなく、住民の安全確保や情報収集などを含めて、町がやらなくてはならない業務が山のようにあり、緊急体制でのぞんでいた。加藤さんも役場に泊まり込みで無我夢中で働いており、気がつけば5日ほど経過していた。
「私たち職員のなかにも、家を流された人もいました。実はちょっと体調を崩してしまいました。それで課長に『もういいから、一度帰れ』と言われたので、実家に帰ることができました。夜中から早朝まで働いて、少し仮眠して、朝から夜中まで働いて……。やっぱり、そういったことで結構ストレスがあったようです」
その頃から、役場では、加藤さん以外にも体調を崩した職員が出てきた。加藤さんは「やっぱり、職員がやらなくちゃって気持ちが強かった」という。そうやって気持ちが張りつめていた職員たちも、1週間ほどでの疲労のピークが来ていたのかもしれない。
「地方公務員って、役場で働き始めるとずっと一緒ですよね。ここの町は狭いので、やっぱり小さいときから顔見知りの職員とかもいる。もう2週間以上すぎて、私は通いにしてもらっていますけど、職員同士で言葉を掛け合ったりはしています。町の状況も少し落ち着き始めているので、職員たちもプレッシャーのような緊張感は少しずつ少なくなっていると思います」
■実家に預けていた子どもの変化
震災からしばらく、佑弥くんの無事を直接確かめられない事について「もう仕方ないな」と思っていた加藤さんだったが、実家に帰ってようやく佑弥くんの顔を見る事が出来た。ただ、震災直後に会えなかった佑弥くんは、少し態度が変わってしまったと話す。
「例えば、風の強い日とか、窓枠が『パキッ』って音をたてたり、テレビから『ピシッ』て音が出るだけでも、地震だと思って怖がるんですよね。地震で揺れているわけじゃないのに、敏感に反応して泣き出すんです」
「子どもサポートチーム」は、仙台市からボランティアで来ている特別支援教育士が中心となって結成された。そこでアドバイスをもらいながら、佑弥くんの心のケアに注意している。しかし佑弥くんは、加藤さんではなく、加藤さんの母親を頼るようになっていた。
「あの子が怖がっているとき、子どもの不安を私が受け止めてあげるべきなのに、地震にときに一緒にいなかったので、私のことを呼ばないんです。『バァバ!』と言って、私の母のところに行きます。私の膝の上にいても、私の母を探しに行くんですよね。母親として、ちょっと寂しいなっていう気持ちもあるんですけども、アドバイザーの先生にうかがったら、それはもう仕方がないことで、これから徐々にそういう気持ちを解いていくしかないと……。子どもが怖がらないようにというか、怖いけれども安心していれるっていうようなふうに持っていければ、徐々にまた、子どもにも変化が出てくると思います」
町の職員として、災害が起これば自分たちの任務の重要性は十分に理解していた。震災以前から「何かあれば、実家にバックアップしてもらう体制にしていた」と加藤さんは話す。
「やっぱり災害が起きれば、私たちが出なきゃいけないっていうのを気持ちにいつも持ってて仕事もしているし、そういう時にはバックアップをしてくれるような母も近くにいるので。母もそれはもう十分に理解していました」
加藤さんは、佑弥くんの変化を知ってから、役場の仕事をセーブして佑弥くんと一緒にいる時間を優先するように心がけた。
「『だっこ』って言ったときにはだっこをしてあげたり、『あそぼ』って言ったときには遊んであげたり。それでも、今も暗いのが怖いみたいですね。夜、寝るときに、電気とかテレビを消すと、『テレビつけて』って言うんです。以前は、そんな事はありませんでした。
これからは、子どもに安心感を与える事が、私にとっての課題だと思っているので、いまはできるだけ明るいうちに家に帰るようにして、帰ってからは子どもと常にいるようにしています。本当に他の職員には申し訳ないです。町の人たちも大事なんですが、私にとっては子どもも大事なので……」
加藤さんは、「子どもサポートチーム」からアドバイスをもらう前から、職員としての立場と、佑弥くんの母親の立場を明確に割り切るようできた。町の人たちのために働くことも重要だが、何よりも自分の子どもを大切にしなければ本末転倒だ。それと同時に、町の事も考えなければいけない。複雑な立場にいる。
「町の職員として、児童館などがどうあるべきかも考えなくちゃいけませんが、私も正直に言って、これからどうしていいのか分からないという気持ちはあるんです。いまは幼稚園も保育園も学校もお休みの状態です。4月下旬に再開されて、子ども達のケアをどうしていくべきか、そういう情報が親や保護者の間で広まっていけば、また動きもちょっと変わってくるのかもしれません」
[キャプション]七ヶ浜町こどもサポートチームが開いた
まつかぜ児童保育館の「遊びの場」(2011年3月28日)
[取材]渡部真(わたべ・まこと)
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。
■フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」
http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp
コメント
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いろいろたいへんだとおもうけれど、被災した子供は本当に心の傷が酷いと思うから、母親としても死の職員としても頑張ってほしいなぁ・・・阪神大震災の時子供だった自分もしばらくは揺れたら怖くて仕方なかった・・・今は逆に揺れてる最中は冷静だけど、神経が高ぶって眠れなくなるよ、3.11の時はニコニコ動画でニュースの生放送とテレビでニュースを流しながら電気つけっぱなしで徹夜した。夜が明けた頃になってようやく眠れた。多分寝てる最中、それも夜明け前のことだったから無意識にその時間をさけて寝ようとするんだろう・・・3.11の子供たちも同じ思いをしてるかと思うと辛いな