取材者:渋井哲也
取材日:2012年9月3日
震災により、国道45号にある小泉大橋が崩落し不通となった。そのため仙台から気仙沼まで宮城県の南北を行き交う車は、本吉町の沿岸部は通行できなく、震災からしばらくは内陸に遠回りして迂回通行せざるを得なかった。2012年6月26日に、ようやく仮橋ができて通行ができるようになったが、壊滅的な国道の深刻な状況が、津波被害の大きさを物語っていた。
藤崎由美さん(44歳)は2012年9月、大谷小中学校の仮設住宅に住んでいた。震災から一年半経ったこの時期に、話を聞いた。
「震災ときはみんなに助けてもらいました、ほんとに。家族は、娘(当時小学校6年生)と両親と祖母の5人です。仮設住宅は狭いので、私と娘、そして両親と祖母の二つの部屋に別れて住んでいます。生活していると荷物が増えますので、部屋の中が狭くなってきましたが、避難所よりはよいと思います。
仮設住宅では知っている人がいるので、声をかけてくれます。知っているから動ける。つながりで一緒にいることができる。地域密着ってのもいい。都会だと、誰がいても関係ないじゃないですか。仕事ばっかりだったので、あまり地域の接点がなかった。ここに来て、地域のつながりができた。ずっと東京にいたんです。そのためもあり、地域のうわさ話が好きじゃない。でも、こういう事態になると、ある程度、知らないといけないかな、って思うんです。その延長で、あまり地域に関心がなかったんですが、ちょっとは持たないといけないかな。
高校を卒業して、東京・浅草の美容学校へ進学したんです。お寺が経営している珍しい学校でした。いまはもうありません。東京で就職をしたあと、『やっぱり、田舎がいいかな?』と思って、戻ったんです。先輩達が田舎に帰ったりして……。あとは東京では息が抜けない。自分では抜いているつもりなんですけどね。戻って12年ぐらい働いています。いまだに声をかけられる」
震災当初の話を聞いてみた。地震があったときには仕事をしていたという。
「気仙沼市南町で美容師の仕事をしていました。海が近いので、とりあえず、自分たちよりもお客さんを早く帰そうと思いました。薬品もあるので、そのままにはできないので、(地震で落ちたものなど)片付けたあと、自分たちも近くの高台に逃げました。高台があったことは本当に恵まれていたな、と思って。船着き場が近く、海が近いけど、逃げ場があったんです」
気仙沼市は総浸水面積が18平方キロメートル。総面積の5.4%だったが、建物用地で考えると46%が浸水している。海から数百メートルの距離に店舗も浸水した。しかし、地理的に近くに高台があったために難を逃れることになる。
「従業員3人だけで逃げたんです。従業員1人が『私たちは子ども達がいるから逃げなきゃいけない』と言ったんです。『そうだね。とりあえず、逃げよう』と言いながら、何もなければ、戻って来てお店を掃除しようということになったんです。その一言があったから助かりました」
三陸地方では、大きな地震があると津波がくる恐れがあるとの教えがあり、一部の住民の間では、自然に高台に避難するという行動をとる人もいた。藤崎さん逃げようとしたのは、そうした反応ではなく、市内での放送があったからだ。
「逃げようと思ったのは、津波に関する放送が流れたからです。『(気仙沼湾の)大島に6mの津波がくる』との情報が入りました。お客さんも『大島に6mも入ったら大変だよ』って。とりあえず、逃げるよ、ということになったんです。高台に向かう途中、同じようにどこかに逃げようとする人がいるなかで、逃げない人もいたんですよね。だから会う人会う人に『逃げたほうがいいですよ』と言ったんです。それで高台まで行きました」
津波が来ているというのはわかって、家がなぎ倒されているのはわかったんです。津波に追いかけられることがなく、恐怖はなかったので、よかったなとは思います。知り合いの中には津波に追いかけられる人もいたみたいです。お母さんは足が何かに挟まったとか。でも、助けられました。ああいうのは、奇跡というのですかね? 何かの拍子で足が外れたとか。津波がきても手すりにつかまって、助かる人は助かった」
藤崎さんの自宅は、国道45号線沿いにある大谷駐在所の近所だった。漁港からみると、高台になっているために、津波がくるとは思っていなかったようだ。
「もともと家は海岸線から200mほどのところの国道45号線沿いにありました。近くには大谷駐在署がありました。やや高台になっていますので、まさかそこまで津波がくるとは思っていませんでした。
最初のころは、『自分の家はあるはずだ』と思っていたりしたんです。でも、現実ってそうじゃないんだな、って。まさか自分の周りでそうなるとは思ってないです。地震がくるたびに家は治していたんです。結局、家がなくなった時点で、『ここに家を建てちゃいけない』ということなんですね。あそこはもう海から見える。建っていた家が流されたんですが、海がそんなに近いとは思わなかったんです。やっぱり、地盤が沈下した分、近くも見える」
仮設住宅の期限は原則2年まで。延長はできるものの、いつまでも暮らせるわけではない。地区ごと高台移転をするという意見や、内陸部に引っ越しをするという住民もいる中で、藤崎さんの選択はどういうものだろうか。
「土地だって高いし、結局、誰もがこれから家を建てるって人はいないです。私だって家をすでに建てていて、その家にずっと住もうと思っていたんですよ。それが逆転してしまったんです。この年で、『家、どうする?』って感じなんですよ。土地の値段は倍以上、という話も聞きます。以前は3万くらいの土地が、10万以上になっているとも聞きました。ただ、つながりで取引される場所がある。知っているから譲るということもあるみたいですが、それでも高いです」
「(沿岸部から離れている住民もいるが)母たちがいるので、海の近くに住みます。それに離れてどうする?というのもあります。できれば、旧本吉地区の通りにあればいいんですけど、なかなか土地がない。そのうち、誰かが『土地、譲ってもいいよ』というようになるかな?とも思って。だから、とりあえず、こっちに帰れたらいいな、と思っています」
慣れない仮設住宅での暮らし、将来への不安など、考えれば考えるほど、ストレスがたまる状況にあるが、藤崎さんはどんなストレス解消をしているのかが気になった。
「ストレスは以前からは溜まらないほうかもしれません。お酒も飲まないほうですね。『仕方がない』と思えますから。現状を自分なりに把握しなければならないです。それが現実ですから。掃除をすれば、ある程度解消できますね。ストレスといっても、今までの通りじゃないと思ってるんですけど、家が残っている人は悪いかな?とも思ってるんです。『何かあったら……』とは話しますが、やっぱり、気を遣っていると思うんです。
とりあえず、仕事を探さないと。仕事がまだ見つからないです。前の仕事を辞めてしまったんです。お店が機能しななったので、職安にいかないといけないんです。とりあえず、美容師を探していますが、見つからないので、焦ります。
これからも美容師がいい。ただ、難しいんです。どんな仕事でもいいなら別でしょうが。本当は、うちの庭に美容室を建てる計画だったんです。何もなければ、いまごろ、そこで仕事をしていたと思うんです。自分が体力がなくなるまで働くつもりでした。これまで無職になったことがないのですが、仕事をしないと不安です。
取材の間、藤崎さんはずっと笑顔だった。家族や仮設住宅の近所の人たちなどに対しても、持ち前の明るさで、周囲を元気づけているように見えたのが印象深かった。
津波で漁船が打ち上げられていた(2011年4月20日)
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。ビジネスメディア「誠」( http://bizmakoto.jp/ )で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
■渋井哲也の「てっちゃんネル」
http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui
コメント
コメントを書く(ID:5628205)
×再開 ○再会
(ID:25682192)
こういう記録を残すということはとても大事なことだと思います。
かげながら応援します。
(著者)
> カイショナシさん
ご指摘感謝。修正しました。
> ヒトガタさん
ありがとうございます。末永くお付き合いのほど、よろしくお願いします。