震災から2週間後、「マスコミも逃げた」と噂された南相馬市の実状を確かめるため、市の広報担当者から話を聞いた。震災前の7万人いたと言われる同市だが、約8割の住民が市外に避難していた。

取材者:渡部真

取材日:2011年3月26日

 
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小雪がちらほらと舞うこの日、南相馬市の市役所の入り口には
「傘は、室内に持ち込まないでください」と貼り紙が出されていた。
放射性物質を市庁舎に入れないためだった


■遠くのほうで煙みたいなものが3本たった。それが津波だった

 震災発生から約2週間後、福島県南相馬市の市街地はひっそりとしていた。当時、東京電力福島第一原発の事故の影響で、20キロ圏内は避難指示が出され、30キロ圏内は屋内退避指示が出されていた。そのため、震災以前には7万人いた市民の多くは、放射能の影響を恐れて市外に避難し、30キロ圏内で避難せずに残った住民も、家の中からほとんど外出する事も出来ない状態だった。
 取材に訪れたこの日、南相馬市の桜井勝延市長は動画投稿サイト「YouTube」で南相馬市の深刻な状況を訴え、英語字幕付きの動画を世界に向けて発信した。
 桜井市長に取材を求めたところ不在だったのだが、当時、南相馬市の広報担当を勤めていた須田昇さん(仮名)に南相馬市原町区にある市庁舎で話を聞く事が出来た。

ーー3月11日に地震が発生したとき、須田さんはどこにいらしたのですか?

「地震の時は驚きました。私はこの部屋にいたんですが、今考えると一番やっちゃいけない事をしました。私の机の後ろにある棚が倒れないように、必死で棚を抑えていたんです。ところが、棚の中にあったものは全部出てしまって、机から物は落ちるし、引き出しは全部開いてしまうし、『これは逃げ場がないな』って思ったんです。2〜3分の揺れだったと思いますけど、今までにはまったく経験のない地震でした。そのあとも、何度も大きな揺れがあって、しばらく余震が続きました。
 なかなか外に出られないほど揺れていましたが、ようやく落ち着いたところで、庁舎の外に出ました。外に出て10分ほどして庁舎の中に戻ったのですが、また揺れて外に出たりしました。震度としては6弱でした。
 その後、庁舎の中の片付けをしたんですが、気になったの火災の事でした。しばらくして、窓の向こう、遠くのほうで煙りみたいのが3本くらい立ってたんです。でも、すぐに消えてしまった。それでまた、今度は2本くらいの煙が出るんです。『火災かな?でも変だな』って思ってたんですけど、それが津波だったんですね。ハッキリと津波が見えたわけでないのですが、津波らしきものはここからでも見えたんです。後から、『あの部落が全滅だ』『こっちは津波で全部やられた』って話が入ってきて、さっき見えたのが津波だったんだと分かりました。
 市の職員も現場に行ってて、津波に呑まれた者が2人います。地元の『福島民友』の記者も1人、津波を取材に行って行方不明になり、いまもまだ見つかっていません。あと、NHKの記者が沿岸部まで津波を撮影しにいって、津波に襲われながら山のほうまで逃げて助かったと言っていました」

ーー生活インフラの状況はどうだったのでしょうか?

「この庁舎では、電気も水道も問題なかったんですが、電話だけはすぐに繋がらなくなりましたね。携帯電話も。インターネットも4〜5日は不通になってしまいました。
 困ったのは情報が何も入って来なくなった事です。一番の情報はテレビから流れてくる情報でした。政府からはまったく連絡ありませんでした。ようやく今日から、政府の職員が市庁舎に来るようになり、オフサイトセンターにいた職員が来ています。東電の職員も一人、今日から来ています。
 いま現在も、原町区(市役所のある南相馬市の中心地域)には新聞が届かないんです。鹿島までは地元紙が届いているので、職員が鹿島まで新聞を取りにいかないと、市役所にも新聞は届きません」

ーー津波の被害の対応の負われるなかで、3月12日に福島第一原発の1号機が水素爆発を起こしました。

「12日に原発事故が起き、そこで10キロ圏内に避難指示が出ましたが、その時点で、市内の一部が避難地域になりました。2日後には避難指示が20キロ圏内に拡大された。政府の強制的な命令で、小高区など約1万5000人の住民の方を無理矢理に避難してもらました。原町区や鹿島にも津波被害の避難していた住民がたくさんいましたので、市内には約2万人ほどの避難者が溢れていました。
 避難させるにも、深刻なガソリン不足などもあり、政府に対して『バスを用意して避難させてほしい』と市長がお願いしましたが、政府からは十分な支援が得られませんでした」

ーーそうした背景があって、住民には自主避難を促したという事でしたが、市民にもう少し強い指示を出す事は出来なかったのでしょうか?

「自ら車で避難できる人たちには自主避難をお願いするしかありませんでした。避難する手段を持っていない方には、市がバスを用意するなどして移動してもらいました。
 15日に、NHKの番組の中で市長が取り上げられるというので、こうした市内の実状を訴えてもらいました」


■新潟県がいち早く南相馬市の支援を表明

 桜井市長の訴えに対して、新潟県の泉田知事がすぐに反応した。翌16日の午前中、泉田知事から桜井市長に電話があり、「新潟県は、南相馬市の全員を避難させても受け入れるように、これから各市町村に指示を出す」と伝えたと言う。桜井市長は、「このような状況下では原発事故がどこまで拡大するかも分からない。何度も避難場所を移動させたり、避難指示を変更していたりして、住民も疲弊していたので、できるだけ遠くに住民を避難させ、まずは移動生活から落ち着かせる事が重要」と考えた。新潟県のほか、長野県飯田市、東京都杉並区、群馬県片品村など、桜井市長の訴えに答えてくれた遠隔地の自治体に希望する住人を避難させる事を決断した。
 16日から住民に説明会を開き、避難所にいた人々や希望する住人を、17〜20日の4日間で避難させた。自主避難する人でガソリンが不足している人には市からガソリンを支給するなどの支援も行なった。そうして、20日までに約5万人から6万人の南相馬市民が市外に避難していった。

ーー市で把握している避難の経緯を教えてください。

「新潟県からは、とても厚いご支援をいただきました。『南相馬市が丸ごと避難してきても受け入れる』と言っていただき、避難用のバスも仕立てていただき、実際に多くの市民を受け入れていただきました。
 風評的な事もあって、放射能の影響を恐れたり、物資が届かなかったり、一時的には今以上の市民が市外に避難しました。
 市で把握しているのは、第1弾として避難所にいた9000人を市外に避難していただきました。その後、第2弾として4665人。で、昨日(3月25日)が152人。最初の9000人というのは、浪江町などから避難してきた人もいますので、南相馬市民だけとは限りません。また、この他に自主避難された方も大勢います。避難状況と言いましても、現在、市に残っている人数が何人かと言うのは把握できていません」

ーー須田さんの印象としてで結構ですが、市全体でどれくらいの方が避難されたとお感じですか?

「どうでしょうか。例えば、私の自宅の周囲には約50軒ほどの家がありますが、夜に電気が点いているのは5〜6軒ですので、8割くらいの住民の方は避難されたかもしれません。原町区と鹿島区を含めて最大で1〜2万人程度にまで減ってしまったと思います。
 3月17日、南相馬市役所に自衛隊員が来て、『100キロ圏内はすべて避難指示が出る』と告げて言ったんです。市の職員も非常に混乱しました。結果的に間違った情報だったんですが、なぜ自衛隊員がそんな事を告げにきたのか、未だによく分かっていません。
 そんななかで、市には少しずつですが、人が戻ってきています。日本中で、この2週間ほど、放射能の影響について情報が出回ったと思います。そうして、自分の地元がどんな危険度なのか判断して戻ってきているようです。避難所にいた人たちも、結局、避難生活に疲れて、自宅に戻ってしまったり、親戚の家に行ってしまったりしています。あと、線量について、市内は比較的低い数値なので、市外に避難した人たちも安心した部分もあるようです。今さらSPEEDI(放射性物質拡散予測システム)の情報が出てきたのも影響があると思います。逆に、過信している人もいて、それはそれで、市としては住民の方に過信しないようにしていただきたいのですが……。

 
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市役所の1階掲示板には、様々な震災に
関する情報が貼り出されていた。
写真は3月11日の避難状況

 
■混乱に拍車をかけた官房長官声明

 こうしたなかで、3月25日、枝野幸男官房長官(当時)は、30キロ圏内の住民に対して、自主避難を促す声明を発表した。
「枝野幸男官房長官は25日の記者会見で、東京電力福島第1原子力発電所から半径20〜30キロ圏内にとどまっている住民について、自主的に避難することが望ましいと語った」(APF通信)
「枝野氏は(福島第一原発から)半径20〜30キロ圏内で屋内退避を指示された住民に関し『商業、物流等に停滞が生じ、社会生活の維持が困難になりつつある』と指摘」した(『河北新報』3月26日号朝刊)。
 これに対して桜井市長は、「こちらのやっている事に対して、政府の対応は遅い。政府からの情報も届かないし、こちらの現場の状況も、政府に伝わってない」と批判した。

ーー今現在の住民の避難状況について教えてください。

「一時期よりは落ち着いてきたかと。先ほど言ったように、市外に避難していた住民が少し戻ってきているようなんですね。実際に、一番人が少なくなった時は、もしかしたら20日頃だったのかも知れません。
 そんな時に、昨日、官房長官からああいう声明があって、市民の人たちをまた混乱させてしまっています。地元に戻っている人たちにしてみれば、自由な往来は制限してほしくないというのと、この地域の経済が成り立たなくなるという気持ちというか、要望もあるようです。ああいう声明が出るのが、もっと早い時期なら、住民ももっと一斉に避難する事が出来たかもしれないのですが……。
 それに、本当に、原発の事故が緊張する状態にあるなら、もっと正確な情報ではっきりと避難しろと命じてほしいです。市のほうで自主避難を促したのは20日までで、それでも残っていたり、その後に戻ってきている人たちに、また中途半端に移動するように声明を出されても、実際に住民の人たちは動けないのです」

ーーいま、避難所はいくつあるんですか?

「原町第一小学校、鹿島中学校だけです。昨日の15時時点で、2つの学校で158人が避難しています」

ーー避難に関するアナウンスが上手くいってないという事もありますか?

「住民の方に伝達手段があまりないのが現状です。車で巡回したり、防災無線を使っていますが、聞こえづらいようです。どうしても、『屋内退避』ということで、窓をしっかり閉めている家の中に閉じこもっている人が多いので、『外で何か言ってるなぁ』という程度にしか聞こえない事も多いんですね。

ーー要介護度が高くて避難が厳しい人もいるのでしょうか?

「いま、自衛隊が、すべての世帯を回って、各世帯の避難状況を把握しようとしてくれています。いざという時に、自主避難できる人がどのくらいで、自衛隊などの助けがないと避難できない人がどのくらいか、調べています。「いざという時がある」というのが、今の南相馬の現状なのです。

ーーTwitterで、女子高生が「自分達と両親は避難したけど、祖父母が南相馬に残っている。強制的に避難するようにしてほしい」と訴えて、話題になっています。

「そういう話は、実際にありますよ。原発事故の影響は、乳幼児や小さなお子さんの方が大きいという話がすぐに出回りましたから、そうしたお子さんを抱える親御さんは、いち早く避難されました。お年寄りのほうが移動が困難ですので、お年寄りだけ残っているというご家族は、実際に私の知り合いでもいます。
 強制的な避難命令は、市では出せません。内閣総理大臣でないとは命令を出す事は出来ないので、市では自主避難を促すしかないんです」

ーー官房長官が指摘した物流や、食料品などの供給はいかがですか?

 物流も食料品も、徐々にではありますが、市内に入るようになってきました。病院機能なども若干回復しつつあります。ガソリンは、今日、私も入れにいって3時間並んで、入れられませんでした。でも、これでもかなり良くなったんです。今日の時点で、市内で4つのガソリンスタンドが開いています。2〜3日前はガソリンが入って来なくて、開けられるスタンドはゼロでした。昨日は1か所。最初は、ガソリンスタンドでは緊急車両優先としていましたが、今は緊急車両も一般の車も、同じように扱うようにしてもらっています。パトカーも、必要あれば並んだり、あるいは市外に行ってガソリンを入れるようにしてもらっています。
 ただ、レストランや外食のお店は、まだほとんど営業していませんね。

ーー食料品といえば、本日から配給が始まったと聞きました。

 はい。今日から配給を始めました。食料調達が困難な住民の方に対する支援です。各地域に食料品の配給車が回って届けています。昨日までは、食料品も物資も、調達が困難な方には、避難所や市役所に来てもらってお渡しするって形をしていました。
 配給をしながら、残っている住民の把握をしたいと思っています。市民の方達がどれくらいのこっているのか、何が必要とされているのか、どんな問題を抱えているのか……。配給をしていく事で、もう少し実態も見えてくると思います。


■マスコミも風評被害を作っている

ーーこれだけ住民がバラバラになって避難していると、これまでのコミュニティは維持できなくなったと思うのですが。

 これまでは、行政区長さんがいて、その下に隣組長さんがいて、地域のコミュニティが成り立っていたんですが、それが今、寸断されてしまいましたので、残っている人たちだけで、新しいコミュニティなり、自治組織をなり、ネットワークを再構築していって、イザって時に備えておかないとならないと思います。
 同時に市全体が退避命令出た時の準備もしています。配給を通した住民の実態把握についても、そうした緊急時のための対策でもあります。

ーー桜井市長が「南相馬からは、マスコミも逃げた」と発言したと聞きました。

 マスコミの皆さんも、原発事故が起きてしばらくは来なくなっていました。
 2日前にようやくTBSの「ニュース23」が来たのですが、それがこの10日ほどで初めてでした。昨日は、NHKが取材に来ました。テレビはその2つだけ。あとはAPF通信の山路徹さん。山路さんは毎日来てます。あなたたちがその後。他はみんな、電話取材だけです。あなたたちは、こうやってきてくれていますが、色んなところに「こっちに来て伝えてくれ」って言っても、なかなか応じてもらえませんでしたからね。
 テレビでは、毎日、色んな被災地から中継がされていますよね。でも、ここではそれがないんです。風評被害が問題だって言われだしていますが、結果的に、マスコミの皆さんが作り上げている部分もあると思います。同心円上に放射能の影響があるわけじゃないってことを、こっちに来て取材してきちんと報道してもらいたいのです。ここより放射線量が高くて危険なところもあるじゃないですか。そこにはテレビも行ってるんですよ。

ーー今後、学校の再開や市の行政の通常運営などが過大になると思いますが、その点は何か方針が決まっているのでしょうか?

 南相馬市の教育行政については、まったく何も決まっていません。小中学校の再開の目処は立っていない状況です。一番心配しているのは高校生だと思います。20キロ圏内の高校に進学が決まっていた高校生は、基本的にしばらくは通う事が出来ないですから。どうやって別の高校に振り分けるのか、県としても未だ何も決まっていないようです。
 市の行政全体が、今後について、まだまだ何も決まっていませんし、何も分からない状況です。
 津波の被害の大きな沿岸部は、遺体や行方不明者の捜索もまったく進んでいません。原発事故の影響は、これからどれくらい先まであるのか。まだまだこれからです。

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津波に襲われた南相馬市原町区の下渋佐。この広大な範囲で、
わずか数名の警察官と消防団員が行方不明者の捜索活動をしていた。

写真には、大手新聞社と大手通信社の記者が3人写っている。
市役所にマスコミの記者はいなくても、被災現場にはいたようだ
(2011年3月26日)

 
[取材]渡部真(わたべ・まこと)
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。
フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」
http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp