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【第5話】宮城県仙台市/大きな余震が続くなかで不安を抱え避難生活を送る家族

2012/11/25 21:00 投稿

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2011年3月21日、仙台市内の八軒中学校が避難所になっていた。そこには若林区荒浜新町に住んでいた、畠山佳子(31歳)さん、颯太くん(7歳/当時小学1年生)、てる子さん(63歳)の3人も避難し、クラスの片隅に3人で一緒に固まっていた。そこで話を聞くことができた。

取材者:渋井哲也

取材日:2011年3月21日

 
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 地震があったときにおやつを食べていたと言う颯太くん


■いつもと違う地震。近くのコミュニティセンターへ行くが……

 3月11日14時46分、颯太君が学校から帰って、佳子さんやてる子さんと一緒におやつを食べていたときに地震が起こった。

「最初はびっくりした。最初から揺れがすごかった。縦揺れとか横揺れとかじゃなく、全体がひどく揺れていた。いろんなものが落ちてきた」(てる子さん)
「タンスが傾いたり、いつもと違う感じ」(佳子さん)

 仙台地域は地震が多い地域で、宮城県沖地震が想定されており、来るべき大震災に備えなければならない状況ではあった。二日前(3月9日)にも地震があった。

「(3月9日の)その地震とはまったく違っていた。今度の地震は普通じゃないとおもったので、すぐに庭に出たんです。うちの二階の窓が少しずつ開いていて、鍵も外れて。近くの家の窓も開いていたんです。地震のときの、まさかのための逃げ道として開けているのかと思っていたんです。鍵も外れて、開いて、また揺れて...。だからこれは駄目だ、と思ったんです。近所の人はどうしたんだろう?と思ったら、頭に物が落ちてこないところにしゃがんで、じっとしていたと聞きました」(てる子さん)
「慌てて外に出たら、鍵を閉めていない窓が地震で空いていたんですよね。電信柱の電線も落ちていた」(佳子さん)

 揺れた後、颯太は学校でしていた避難訓練と同じように、すぐにテーブルの下に隠れていたという。てる子さんに「私よりも賢いなと思った」と言われると、笑顔で照れていた。てる子さんは小銭を持って、手提げと厚めのオーバーを着て、サンダルじゃなく靴を履いて、逃げる準備をし、外に出た。周囲の人もリックを背負って、逃げる用意をしていた、という。二日前の地震があって、避難のための準備をしていたという人を何人か聞いたが、畠山さんの家の周辺にもリックの中に避難のための物資を詰め込んだ人がいたということだろうか。

「避難しないといけないというので、うちも手ぬぐいを蒔いて逃げたんです。それでコミュニティセンターへ行きました」(てる子さん)

 荒浜地区では、荒浜小学校が避難所になっている。しかし、荒浜新町付近は、小学校がやや遠い。そのため、この新町周辺の人たちは「荒浜コミュニティセンター」に避難した。同センターは2階建てで、消防団の屯所がある「コミュニティー防災センター」と「老人憩いの家」が併設している建物だ。一番近くて、避難所になっていたからだ。

「でも、2階まで行ったら誰もいなかったんです。あれ?小学校のほうがいいのかな?と思って、小学校まで歩いて行った」(佳子さん)

 結果として、この判断は正しく、大津波はコミュニティセンターを飲み込んだ、ただ、この段階で大地震があったから大津波が来ると思っていたのだろか。

「いやー、津波は考えていなかったんですが、荒浜小学校前の信号機のところで、消防車とすれ違って、“6mの津波”と言っていたんです。そのとき始めて、私、津波がくると思ったんです」
「津波というか、やっぱり、高い所がいいと思いましたね。消防車がすれ違ったのは、15時30分になるかならないかの時だったね」(てる子さん)
 
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畠山さんたちが最初に避難した仙台市荒浜コミュニティ防災センター
(2011年3月23日) 
 

■消防車の広報で津波を知るが、帰れると思っていた

 コミュニティセンターから荒浜小学校までは約500メートル。徒歩にして10分弱かかる距離だ。判断が少しでも遅れたら、荒浜小学校までたどり着けなかったかもしれないと思うと危機一髪だ。ただ、6mの津波の警報があっても、まだ家に戻れるのではないか、と思っていた、という。だから通帳とかも何も持たなかった。

 「親類も荒浜にいないために、特に連絡を取らなかった。1年前にも地震があって、そのとき“津波がくる”と言われていたが、結局、津波は来なかった。だから、家に帰るという頭があったんです」(佳子さん)

 多くの人がそうだったように、津波警報が鳴っても、それほど大きな津波がくるとは思っていなかった。津波警報に慣れてしまっていたためか、畠山さん一家もそこまで深刻には考えていなかった。
 <石巻市の牡鹿半島の沖にある金華山に津波がぶつかって、それが弱い波になって仙台市の荒浜付近にくる>
 てる子さんはそういうイメージを持っていた。それは、荒浜に昔から住んでいた人が言っていた、いわば口頭伝承だ。もちろん、根拠がある話ではないが、これまでの経験値でそうした話になってたという。そのため、荒浜が津波被害にあうとは思っていなかったようだ。

「まさか、津波でこうなるとは思っていなかった。ただ、いつもと違う地震だったので、本能的に逃げたんだろうと思うんです。だから、近所の方々も一緒にリックサックを背負って逃げたんだと思います。ただ、誰も出てこない家もありました。昔から、ここには津波がこない、という信念を持っていた方は、家から出なかったんですね」(てる子さん)

 津波情報は消防車のアナウンスだが、この地震の規模をする手段は、体感以外にはあったのだろうか。てる子さんは地震後、テレビをつけていない。佳子さんは携帯電話の地震警報で「宮城県沖で地震」というのを知った。しかし、どのくらいの津波がくるのかは消防車とすれ違うまでわからないでいた。

「6mの津波と知ったときには、それなら車でもっと遠くへ逃げたほうがよかったと思ったんですけど、戻ったら、津波に飲まれると思ったので、とりあえず、小学校へ上がったんです。それからどれくらい経ってからだろうか、津波が来たんです」(佳子さん)

 畠山さん一家の3人が荒浜小学校へ来てから津波がくるが、てる子さんはその間の時間を7~8分くたらいと感じている。

「4階にいたんですけど、3階まで波が押し寄せて、家も倒れて来て。みんあが、ウワァー、ウワァー、と叫んでいました。もう助からないと思いました。みんな、波に飲まれるんじゃないかと思いました」(てる子さん)
「その後、もっと高い津波がくるかもしれないということで、みんなで屋上まで逃げました。屋上まであがって、津波がくるのを見ていました」(佳子さん)


■屋上からの光景はまるで映画のようだった

 屋上にあがると、津波が荒浜の防潮林の役割を果たしている松林を越えた。見ていた津波を3人はこう表現した。

「映画のスクリーンのようだった」(てる子さん)
「ディープ・インパクトみたいだった」(佳子さん)
(手を移動させながら)「ざーって」(颯太くん)

 避難する際、家族や近所に声をかける余裕はあったのだろうか。

「もうお隣はいなかった。平日だったじゃないですか。友達は働いている時間だったので、家にはいないだろうと思ったんです。だから、子どもを母を連れて、避難したんです。姉(次女)は出かけていました。メールを送ったのですが、返信がなかったので、もしかして、戻ってくる途中に巻き込まれたんじゃないかと思って、心配していましたが、次の日に、もう1人の姉(長女)を通じて無事だと分かったんです。お父さんは一番上の姉のところに行っていたみたいです」(佳子さん)

「夫も出かけていたので、波に飲まれてしまったんじゃないかと思ったのですが、助かりました。一時は、夫と次女はどうなったかと心配しました。電話もつながりませんでした。三日経って無事だと分かったんです」(てる子さん)

 佳子さんからみれば父親、てる子さんからは夫は地震があったときに、七郷小学校に避難した。一時間後、長女が住む利府町のほうへ避難していた。しかし、携帯電話の電波が通じないことから、てる子さんも佳子さんも心配していた。
 ただ、近所の車いすの女性が亡くなった連絡があったという。

「近所に車いすのおばあちゃんがいるんです。でも、見かけなかったので、もしかして、誰かが逃がしたのかな?と思ったんです。朝から介護施設に行って、午後に帰ってくることもあるんです。だから、どうかな?と思って。後ろのお墓の石も羽織れていましたんで、私たちも危ないと思って、近所の方が避難するのと一緒に逃げたんです。近所の方が亡くなったと昨日(3月20日)、電話があったんです。そのときは本当にびっくりしましたね。回覧板を回す仲だったんです。怖いながらも、家にいたんじゃないか。家族の人も見かけていなかったといいます。警察から、詳しいこと聞きたいと言われたんですけどね」(てる子さん)

 一方、沿岸部に戻る人もなかにはいた。その中に佳子さんの友達もいたようだ。 

「地元の友達で、看護婦さんをしている子がいるんです。その日も仕事かな、と思って。でも、何日か連絡がなかったんです。メールしていたのですが、なかなか返事がなかった。しばらくしたら連絡があったんです。その日は仕事が休みだったが、お父さんを助けようと思って家に戻った。家を出ようとしたら、津波がきたようでした。一日くらい、家の中にいたんですが、翌日、助けられたみたいです」(佳子さん)
 
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一時避難所になった荒浜小学校。教室の黒板
には「こんなときこそ思いやりと感謝」と書
かれていた(2011年4月27日)      
 

■救助のヘリはなかなか来ない
 救助のヘリはなかなか来なかった。広大な津波被災だから仕方がない。第一便が着たのは津波がやってきて1時間ぐらいだったという。

「最初は溺れている人を助けないといけないというので、なかなか来ない。こちらとしても、また津波があって学校まで着たら小学生とかみんな大変になると思って気が気じゃなかったんです。運ばれるときも、小学生以上は親子別々でヘリで運ばれたんです。小学生、中学生、次はお年寄り……という順でした」(佳子さん)

 ヘリで救助されるときは、トリアージされた。つまり、救助の際の優先順位が設けられたのだ。こうした緊急事態ではよくあることだ。しかし、当事者からすれば、様々な不安が頭をよぎるのも事実だ。

「だから、このまま親子も離ればなれになるんじゃないかという不安もあったんです。小学生の低学年から先に運ばれて行ったんです。まあ、颯太はいつも抱っこして寝ている状態ですから、このまま別の避難所に運ばれたら、と思うと心配だった。学校としては、先生が側にいるということだったんですけど」(てる子さん)

 順番を待っていると、徐々に10人乗りのヘリがやってきたりしていた。そのときは3人乗りのヘリだった。一晩は、颯太くんは家族がいない状態で過ごすことになった。

「せめて1、2年生だけでも親と一緒に、とお願いしたんですが、そこは聞いてもらえませんでしたよ」(てる子さん)

 ヘリに乗るとき、颯太くんは「ちょっと怖かった」という。そして、母親と祖母と離れることになったために「寂しかった」と話す。

「子どもがヘリに乗ったのは当日の夜中。私たちがヘリに乗ったのは翌日の夕方でした。運ばれた先の自衛隊で再開して、この学校に避難してきたんです」(佳子さん)

 八軒中学校は避難所になっていた。畳もあったために、暖を取ることができていた。本部は床のままだが、避難所になっている各教室には畳が敷かれていた。

「それだけでもうれしかったですね」(てる子さん)
「ヘリを待っている間は夜も眠れなかった。ここに着いてからは暖かいし、疲れてていたので、ぐっすり眠れました。でも、地震がなかなか治まらないですね」(佳子さん)

 余震も心配だった。そのため、もし大きな地震があったら、避難をする際、親子が離ればなれになってしまうのではないかとも感じている。こうした短期的な心配はASD(Acute Stress Disorder、急性心的外傷性ストレス障害)と言うが、その症状は様々だ。思い出したり、悪夢を見る追体験が起きたり、逆に関連する事柄を避けようとする回避、あるいは、神経が高ぶって、不安や不眠にあらわれる過覚醒がある。ただ、親子の再会が早かったために、過覚醒もそれほど深刻ではないように見受けられた。その一方で、子どもが以前よりも甘える傾向にあるというのは気になる点だ。
 
「今日も余震が3回あったかな」(佳子さん)
「ちょっと買い物に出かけるとしても、また地震があって、今度は離ればなれになるんじゃないかと心配です。これまで聞き分けのよい子だったんです。でも、ここにいれば、お母さんとべったりで甘えられるからか。よく甘えています。ただ、ちょっと甘え過ぎかな、、みたいな。ストレスもたまっているんでしょうし、友達との交流もありませんから」(てる子さん)

 この避難所には小学生が少ない。だからというのもあり、同年代の子どもとの交流がほとんどない。だからこそ、母親に甘えてしまうのか。震災から10日後、颯太くんは母親の側にいるしかないかった。
 

 
[取材]渋井哲也(しぶい・てつや)
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。ビジネスメディア「誠」( http://bizmakoto.jp/ )で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
渋井哲也の「てっちゃんネル」
http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui
 

コメント

くそう
ちくしょう

No.1 145ヶ月前
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