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岡田斗司夫の毎日ブロマガ 2019/04/18
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今回は、ニコ生ゼミ04月07日(#276)から、ハイライトをお届けいたします。

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 【『平成狸合戦ぽんぽこ』解説 3 】  高畑勲が “狸の睾丸” を通じて目指したもの


 次は、前回も話すと言った「『平成狸合戦ぽんぽこ』には狸の “睾丸”・“陰嚢” が山のように登場するのはなぜか?」という話です。


 高畑勲に言わせればですね、狸に関してちゃんとしたアニメを作ろうとしたら、もう無視できないポイントになるんです。

 歌川国芳の描いた浮世絵があります。

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 この絵は『ぽんぽこ』の中にも出てきます。

 「鯨かと思ったら化かされてました。狸の陰嚢・睾丸がダラーンと下がって、鯨みたいに見えたのでした」っていう浮世絵。

 これはアニメの中にも登場するんだけど、歌川国芳は、こんなのをいっぱい描いてるんだ。

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 たとえばね「狸たちが魚とりをしています。網はもちろん自分たちの陰嚢です」とか、「おっ、雨が降ってきた。大変大変、雨宿りをしよう。雨宿りをするのはもちろん自分たちの睾丸です」とか(笑)。

 今、コメントで「キツネじゃないか?」って書いてあったんだけど、江戸時代は狸をこういうふうに描いたんだよ。

 今の “漫画風の狸” という画風が生まれてなかったからね。


 あとは、まあ「占い師がいます。屋根は睾丸です」とか、「狸がお店を出しました。看板は陰嚢で作ってます」とか。

 こんな絵がナンボでもあるよ。

 本当に、「歌川国芳 狸」で調べたら、すごいいっぱい出てくるよ。

 あと、これね。「寒い時はもちろん陰嚢を膨らませた布団で温まりましょう」とか、あとは「狸が、でっかい太鼓を自分たちの袋で作って、どんどん叩いて大騒ぎしています」という。こういう絵を山のように描いてるんだ。

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 まあ、毛がありますね。毛も生えてます。

 陰嚢ですから、はい。

 だから、『平成狸合戦ぽんぽこ』の陰嚢が膨らんでいくシーンには、わざわざ毛が生えていて、なんか嫌な絵になってるんだけど。


 「じゃあ、江戸時代の人はこういうのを信じていたのか?」というと、もちろん江戸時代の人も、こんな浮世絵が残っているといっても、まるっきり信じていたわけじゃないんだよ。

 「そんなことあるかい!」と思いながらも、だからといって、信じてないわけじゃない。

 ここら辺が絶妙の距離感なんだよね。


 こういった浮世絵に描かれていることについては「まさかそんなことはないだろう」と思っているんだけども、ところが、狸というのは “大明神” として、いくつかの神社ではちゃんと神様になっていて、みんなそこにお参りをして願掛けとかをする。

 ちゃんと神様として奉じてるわけだよね。

 だから「信じてるわけじゃないけども、信じていないわけでもない」。

 そういう微妙なポジションなんだよ。

・・・

 高畑勲が狸という題材を選んだのは、こういうふうに、言っちゃえば “間抜けな存在” だからだよね。

 実は人類の宗教の歴史において、こういった間抜けな想像をされていて、おまけに信仰の対象になっているのは、この狸だけなんだよ。

 たとえば、インディアンの “トーテム” みたいに、人間以外の生き物を神様として祀るという部族社会はいくらでもあるんだけど。

 でも、それは狼であるとか、鷲であるとか、そういう強い生物ばっかりなんだよね。

 「古今東西、人類の長い歴史の中で、こんな間抜けな空想をされながら宗教の対象になったのは狸のみだ」というふうに高畑勲は言ってる。

 そして、「この狸と人間の不思議な距離感を映画にしたかった。狸だからこそ、アンチ・ファンタジーが出来る」と。


 アンチ・ファンタジーというのはどういうことかというと。

 たとえば、権太っていう過激派の狸が、最後に人間を襲いに行く時に、パラシュート部隊を率いるんだけどさ。

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 パラシュート部隊が飛び降りる時に、自分たちの陰嚢の皮を思いっきり広げて落下するわけだよ。

 じゃあ、僕らはこれを見て信じるのかというと、まず信じないよね?


  『ハリー・ポッター』なんかに出てくる、光がでる魔法とかさ、あれってファンタジーだよね?

 そういう魔法を見たら「こういうのがあるかもしれない」と思う。

 それが、ファンタジーの力なんだけど。


 高畑勲というのは、ジブリのものすごく高い技術力を使って “観客が全く信じない世界” というのを描いたんだよ。

 それがアンチ・ファンタジーっていうことなんだ。

 これを見た人は「馬鹿らしい」と笑って楽しむだけ。

 「こんな世界あるはずがない」と思う。

 つまり「信じないけど楽しむ」っていう、これこそが高畑にとってはファンタジーのちょうどいいポジションなんだよ。


 みんなが「こんなことがあるかもしれない。こっちの方がいいな」と思って信じ込んじゃうファンタジーじゃなくて、「そんなのありえるはずないじゃん! ……でも、面白いよな」という。

 さっきの浮世絵の世界と同じで、「そんなのあるはずがないじゃん! ……でも、面白いな。帰りに狸明神のところに参ってみようかな」という、この呼吸を高畑勲は欲しがっていた、と。

・・・

 この「狸は睾丸・陰嚢を広げて物を表現する」というのがわかっていれば、さっきの浮世絵とかもわかっていれば、クライマックスの妖怪大作戦や、ラストのかつての多摩丘陵が蘇るというシーンも違って見えるんだ。

 妖怪大作戦で、巨大な妖怪とか化物が出てくるじゃん?

 あれ、当たり前だけど、ほとんど狸の陰嚢なんだよね。


 人間っぽい変身に関しては、狸が自分の細胞を変化させて化けるんだけど。

 たとえば、ポルコ・ロッソが出てくるんだけど、ポルコの部分はたぶん狸なんだよ。

 でも、そんなポルコが乗っている飛行機の部分は、全部 膨らんだ狸の睾丸で出来ているわけだよね(笑)。


 あの巨大な骸骨も、何もかも、あれは全て狸の睾丸で出来ている。

 だから、あのシーンというのは、ものすごく下らないわけだよ。

 なんか「狸達が頑張ってこんなふうに妖怪を見せている」っていう、あれはあれでいじらしいんだけども、同時にものすごく下らないものを見せようとしているわけだよね。


 だから、「狸よりサイズが大きいものは、だいたい狸の陰嚢だ」と思ってくれればいいよ。

 さっき言ったジブリキャラについても、みんな「あっ、キキがいる!」とか「トトロがいる!」とか言って、テレビを見て喜んでるじゃん?

 でも、あれは正確に言えば「狸の陰嚢が化けたキキがいる! 狸の陰嚢が化けたトトロがいる!」と言うべきであって、まあ、そういうのを見て喜んでいるわけだよね(笑)。

 この馬鹿らしさこそが、高畑勲の描きたかった「総天然色漫画映画」っていうやつなんだよ。


 これね、たとえば「桜の花はどうなってるんだ?」っていうと。

 「桜の花を咲かせしょう!」って桜の花が咲くシーンもあるんだけど、もちろん、そういうものもある。

 幻術という、いわゆる幻を見せることも狸はするんだけど。

 ところが、その幻を見せるエネルギー源というのは何かというと、狸達が手を合わせて放電する力なんだよ。

 その狸達が手を合わせて放電したり、自転車をこいで電力を一生懸命作ったりして、巨大な招き猫の建物を作ったりする。

 だけど、この巨大な招き猫の建物は、やっぱり狸の陰嚢で出来たりするわけだよね(笑)。

 だから「電力で巨大な陰嚢を作って、その中の空間で不思議な幻を見せる」という感じが、あの世界なのではないか、と。

 たぶんね、高畑勲はここら辺、すごく理屈立てて作ってるんだろうけど。


 この馬鹿らしい感じが、高畑勲が作りたかった総天然色漫画映画。

 ラストで眼の前に広がる、かつての多摩丘陵のシーンというのがあるじゃん?

 あれを見ると、どうしてもジブリ作品のことを「自然は素晴らしい。みんなもう一度、人間らしい暮らしに戻れ」という作品に思えちゃうかもわからないんだけど。

 でも、高畑勲が作ろうとしたのは……「なんで狸なのか?」、「なんで狸の陰嚢がこんなに出てくるのか?」という視点で見たら、もうハッキリわかるんだけど、あれは “広がりきった狸の陰嚢” を見てるわけだよね(笑)。


 狸達が最後の力で念力を合わせて作った巨大な狸の “タマ” が、地平線まで広がって、それが多摩丘陵に見えるわけだ。

 それを見て、みんなは「わあ、お婆ちゃんがいるわ!」とか、「せっちゃん、せっちゃん!」って言っているという、世にも下らないシーンなんだよ。

 「世にも下らないんだけど、でも、ここ、なんか懐かしくて、グッと来るでしょう?」と。

 これをやろうとしているわけだよね。

 そして、人間は狸達の陰嚢を見て「お婆ちゃんだ!」とか「せっちゃんだ!」とか言ってるんだけど、最後には、狸まで化かされて、昔の家に走って戻ってしまう。

 ここまでの馬鹿らしさを込めたのは、高畑が、この映画を “見る落語” にしたかったからなんだよね。

・・・

 前回、「『ぽんぽこ』というのは、実は落語をやろうとしてるんだ」って、ちょっと話したんだけど。『二階ぞめき』っていう落語があるんだ。

 ちょっと変な落語なんだけども。「ぞめき」っていうのは「冷やかす」っていうことで。


 昔、吉原が好きな若旦那がいた、と。

 もう、吉原に行って遊ぶのが大好きで、家にいない。

 番頭らが怒ったら、「いや、俺だって行きたいわけじゃないよ。俺は出不精だから、本当は家にいたいんだ。ああ、家の二階に吉原を作ってくれたら、俺も行かないのに」とか、ムチャクチャなことを言う。

 そしたら、番頭が「ようがす。わかりました。じゃあ、若旦那のために2階に吉原を作りましょう。ちょっと待ってください」と。

 3ヶ月か半年くらいしたら、「若旦那、出来ました。2階に行ってください。今晩からやってます」と。

 若旦那はビックリして、「えっ? うちの二階に吉原を作ったの?」と。


 だって、吉原ってさ、建物というか “街” なんだよね。

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 ところが、「これを作った」と言われて、若旦那が二階に行ったら、まあ落語だから、吉原の大通りがサーッと並んでるんだよ。

 赤提灯がポツンポツンと点いてて、どうも、もう人がいない吉原だということになっている。


 若旦那は、「いや、これがいい。これがいい。もう人がいなくなった吉原で、誰もいないところに、まだちょっと客がつかなかった花魁がいたりして、そういうのを冷やかすのがいいんだよ」と言うんだけど。

 若旦那が、その2階に作った超巨大な…

 …落語だから何とでも言えるわけだよ。

 曲がり角まであって、途中に電信柱があるような、超巨大な吉原を歩いているフリをしていると、そこで女郎に声を掛けられる。

 それと話をしていると、別の花魁から「あら、あんた、なんでそいつと仲が良いの?」なんて言われて、2人から袖を引っ張り合われて、喧嘩になりかけたところに、さらに吉原の若い衆までやってきて、「旦那、何してんですか」って、4人掛かりで大揉めに揉めてるっていう場面を、落語家が1人でやるんだけどもさ。

 なんかね、この落語を聞いている客というのは、この “シュールさ” を笑うわけだよね。

 「2階にそんな吉原なんか作れるはずがない」と。


 ところが、映画じゃないからさ、落語って、口で言えばどうにでもなるんだよ。

 なので、お客さん達は、シュールな絵を想像して大笑いするわけだ。

 これは “ファンタジー” じゃないんだよ。

 「そんなことがあるとは信じてないんだけども、でも、それが面白くて大笑いしちゃう」という噺なんだよね。

・・・

 『ぽんぽこ』が目指したのも、このシュールな笑いに近い。

 『二階ぞめき』というのは「いい加減にせえ!」とか、「それ、シュールやん! 絶対、嘘やん!」というような笑い方であって、本当は『狸合戦ぽんぽこ』も、そうやって見て欲しい、と。

 高畑勲は、ずっと、ファンタジーに対する批判として「世の中 “主観的な映画” ばっかりだ」と言っているんだ。


 たとえば、主人公の彼女が病気になって倒れたら、空港の真ん中で「誰か助けてください!」と叫ぶ。

 こんな映画ばっかりだと。

 こういった映画というのは、観客が感情移入することによって面白がるものだ。

 そんな空港のど真ん中で「誰か助けてください!」なんて叫んでたら、それで人が集まって、結果的にそれに邪魔される形で飛行機に乗れなくなった人が出るかもわからない。

 その結果、迷惑を受けるかもしれない。

 でも、そういうことは一切描かれない。

 そうじゃなくて、ど真ん中にいる人達に感情移入することだけが映画の見せ方になっている。


 自分の映画というのは、そうではなく、「そんなことを言っても……」とツッコめる客観性というのを、いつも大事にしている。

 だから、『火垂るの墓』でも節子が死んだ次の朝に、雑炊を全部食べてしまってる丼を、さり気なく見せることによって、高畑勲は「いや、そんなこといっても」というのを常に見せている。

 こういうのをやってるわけだよね。


 『ぽんぽこ』が目指したのもそれなんだよ。

 クライマックスで袋を広げて、いちいちパラシュート落下するシーンを描いてるのも、あれは高畑勲流の『クレヨンしんちゃん』の「ぞーおさん、ぞーおさん」なんだよね。

 「そういうもんだ」って言ってるんだけど、やっぱりみんな、ジブリを真面目に受け取りすぎて、そこまで下らないものを作っているとは、なかなか考えてくれない。

 「下らないものだったら、『クレヨンしんちゃん』みたいに、もっと “ギャグ” っていう記号が入ってるはずだ」と思い込んじゃうんだよ。

 でも、東京大学フランス文学科を卒業した高畑勲には「ギャグを入れる」だなんて野暮なことは出来ないわけだよね。

・・・

 ラスト、『ぽんぽこ』で、狸たちは、自分たちの妖術で昔の多摩丘陵を出現させて、人間達が騙されることになるんだけど。

 しかし、同時にポン吉達も騙されて、昔の懐かしい住処に走って行ってしまう。

 すると、眼の前に人間が出てきて、「狸だ! かわいい!」と言われてしまう、と。

 そんな「自分達の作った幻に、自分自身が騙される」という、なんかすごく残酷なシーンをやってるんだけども。


 もちろん、この「自分達が睾丸の袋で作った多摩丘陵を、自分達まで信じて走って行ってしまうポン吉達」というのは、自分の作ったアニメの中に出てくる女の子を本気で好きになってしまう宮崎駿に対するあてつけというか(笑)。

 ここまで行くと、嫌味が高級すぎて、東京大学フランス文学のパリのエスプリが効きすぎて、俺にもよく分からなくなってんだけど(笑)。

 そういうところ、宮崎駿がやっている「自分が作っているキャラクターを好きになっちゃう」ということに対して、「お前、それは違うだろ?」というふうに、残酷なところも見せてしまう。

 ここら辺が、高畑勲のすごい所だと思います。

 
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