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「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 3 】 アシタカが村を追放された本当の理由」
アシタカの村の男達はみんな頭に髷を結ってるんですけども、これを切ります。
……もう「みんな何度も何度も『もののけ姫』を見てるでしょ?」という感じで喋ってるんだけど、大丈夫かな?(笑)。
はい、髷を切るシーンなんですけど、すごく小さい刀を使っています。
たぶん、この小さい刀が、この国に唯一ある “鉄” なんですよね。
アシタカが、後に旅に持っていく大きい刀みたいに見える武器や、女の子たちがタタリ神と戦おうとした時に抜いた大きい刀は、全て青銅製の “山刀” といわれるものです。
山刀というのは、山の中を歩く時に、邪魔な蔦を払うための杖と刀の間みたいなものです。
彼らには、そういった青銅文化しかなく、鉄というのは、ごく小さいものしか持ってないはずなんです。
なぜかというと、村人のみんなが刀くらいのサイズの鉄器を持てるほど膨大な鉄を製錬しようとすると、あの土地の近くに森なんか残っているはずがないからです。
鉄というのは「5トンの鉄を作るのに山1つなくなる」と言われるくらい、木を切らないと作れないものなんですよ。
そういう文明だと思ってください。
ここでは、ヒイ様の表情込みで見てください。
同時に、僕ら観客も、なんとなくそれで納得させられるというか、騙されてしまうんですね。
なんでヒイ様は西に行かせようとしているのか?
いや「呪いを解く方法が見つかるかもしれぬ」って言ってるんですけど、それって何の根拠があって言ってんのよ?
そんなふうに思うんですけど。
これね、この映画の最初の大事なポイントなんです。
この毒が行く行くは骨にまで達して、彼は死んでしまう。
この死から逃れるために、西に旅をする。
これが『もののけ姫』のストーリー展開だというふうに、今の今まで、僕らは思わされているんですけど。
だって「タタリ神が死んだ場所には塚を築いてちゃんとお祀りします」って言ってますから。
この映画の中に出てくる神様というのは、たしかにすごい巨大な力を持っていて、身体も大きいんですけど、それだけなんですね。
テレパシーみたいな超常現象みたいなものは一切使えない。
まあ、唯一、シシ神だけが、ちょっと不思議な力を持ってるんですけど、他の神々は、そんなものを持っている描写がないんですよね。
乙事主もモロも、この映画の中で死にますけど、死んだらそれっきりです。
なぜ、アシタカに呪いに関する話をする時のヒイ様が、ポーカーフェイスで語っているのかというと「演技しているから」なんです。
村人もアシタカも気がついてないんですけど、ヒイ様の心の中にだけ、ちゃんと理由があるんです。
それは何かというと、アシタカの呪いの正体というのは「死ぬこと」ではなく、「アシタカ自身がタタリ神になること」なんですよ。
それと同じように、アシタカは次のタタリ神になる運命を受けてしまったんですね。
それどころか、次の矢を射ると、相手の首がポーンと切れるんですよ。
これにはアシタカ自身も驚いているんですけど。
これは、この時点で、彼にはそういうパワーが与えられているからですね。
そして、それは聖なるパワーであると同時に呪いのパワーなんです。
呪いのパワーはアシタカを死に至る苦しみへと誘い、そして、聖なるパワーは彼の力を無限大に膨らませて行く。
アシタカは、タタラ場に行った時にも、傷ついたサンを担いで「どいてくれ! 俺は行くんだ!」と、本来は何十人掛かりでやっと開けられるような巨大な木の扉を、1人で、それも片手だけでグーッと押し開けます。ここで使うのも、やっぱり呪いを受けた右手なんですよ。
あれは明確にアシタカが段々と怪物になっていく途中を描いているんですね。
やっぱり僕、わからなくなっちゃった理由の1つは、タイトルを『もののけ姫』にしちゃったことにあると思うんですよ。
なので “恋愛モノ” に見えちゃうんです。
そして、こういった「礼儀正しい態度とは裏腹に、彼の中には深い絶望や怒りがある」ということは、あえて今回は描かないと、宮崎駿は言ってるんですね。
「そうか! 弱音を吐くような人間は “弱虫” なんだ! 俺が庵野の『エヴァンゲリオン』が嫌いな理由がわかったよ! 僕は可哀想だ、僕は可哀想だって、あんなに泣きごとを言いやがって!」と。
司馬遼太郎から「本当に不幸な人間は、むしろ礼儀正しくなる」と言われて、宮崎駿は、本当に感動したそうなんですけど、その影響なんですね。
なので、アシタカの内面は台詞になって表れないんです。
『ラピュタ』のドーラみたいに「この方が便利かもしれないねぇ」みたいな独り言を一切言ってくれないんですね。
その結果、「アシタカがどんどん怪物になっていく」という描写も、表現としては怪物じみているんですけど、僕らとしては、スーパーヒーロー的な良いことみたいに思っちゃうんです。
アシタカが、指先ひとつで相手の刀をグニャっと曲げて、最後は親指と人差指だけで刀をへし折るシーンとかも出てくるんですけど。
あれは完全に「怒りによって力が暴走していって、モンスター化している」という表現なんです。
最初は、アシタカも、落ち着いて自分の心をコントロールしていた。
「村から出て行け」と理不尽なことを言われても「わかりました」と言って、ため息を吐くくらいだったんですけど。
映画の後半では「興奮すると、どんどん力が暴走して、自分でも制御できなくなる」というところがハッキリと出てきます。
おヒイ様にとっては、これからタタリ神になり、人間でなくなってしまうアシタカこそが、一番怖かったわけです。
だから「アシタカは良い子で、たぶん、うちの村を継いで良い王になってくれるだろうけど。しかし、もうすぐ彼は、痛みと恨みと自分に降り掛かってきた不条理に対する怒りで、怪物になってしまう。その前に村を追い出そう」と考えたんですね。
その上で、さらに「このタタリ神となる若者を、我々の村にタタリを押し付けた西にある大和の王の元に送り込んでしまおう」と考えています。
こういうのを「忌み返し」と呼びます。
何か忌むことをされた場合は、それと同じように相手を忌むことで返すのが、未開部族の間のルールとしてあるんです。
平安時代になってくると “式神返し” とか、もう少し体系化されるんですけど。
なので、おヒイ様は、すごいポーカーフェイスで “戦略兵器” としてのアシタカを、西の大和の国へと送りつける忌み返しを発動させたわけですね。
この人も、最初にアシタカに会った時「こんな鉄の弾がイノシシに入っていました。そのおかげで、私は呪いを受けました」と言う彼をしばらく見て、急に「ここから西の端のもっと西の方に行くと、山の中にすごい神がいる。その神に会えば、君の呪いもなくなるかもよ」と言うんですよね。
これはつまり「ジコ坊はジコ坊で、デイダラボッチという大怪物に、このアシタカという大怪物をぶつけることによって、退治しよう」と思ったからでしょう。
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