◎弥益ドミネーター聡志インタビュー「いまの萩原京平は“1年前の実力”ではない」
UWFの熱を浴びて人生を変えられた方々にあの運動体を振り返ってもらう「こじらせU系・第4弾」。今回は元祖・こじらせU系の中井祐樹先生! 総合格闘技やブラジリアン柔術を広めた原動力はUWFにあった(聞き手/ジャン斉藤)
――中井先生、UWFの話題がいまでも尽きないんです。
――中井先生はこれまでUWFについて何度もおしゃべりになってますし、柳澤健さんが書かれた『1984年のUWF』でもキーマンとして登場されてます。こうして時代を越えて何度もUWFという運動体が話題になるのは、どうしてだと考えられますか?
中井 なんていうんですかね、もちろん格闘技の原点と言いますか、格闘技の源流となったみたいな捉え方がひとつと。いまだにあのビジュアルもありますよね。あのレガースは格好いいんでしょう。
――WWEでもレガースを履いてるレスラーはいますね。プロレスのアイテムとして溶け込んでいます。
――みんなUWFの話題になると熱くなるんですけど、じゃあUWFスタイルが見たいかというと、そういうものではなく。ノスタルジーとして「昔のプロレスは……」と語るときにたどり着くもの、そのひとつがUWFなのかもしれないですね。
中井 そう思いますね。だけど、あのスタイルのプロレスにまだ可能性があると感じている人が少なからずいて。そういう人たちの熱が時々、ボクも引っ掛かってくるんですよね。
――それはどういう引っ掛かりですか。
中井 ボクは『ハードヒット』でエキシビションマッチ(鈴木みのる&中井祐樹vs藤原喜明&近藤有己)に出場させてもらった恩義はありますけど。『ハードヒット』を主宰している佐藤光留さんはUの末裔というか、UWFの残り香はありますよね。UWFにこだわってやっているということは、ボクからすると、いまの時代にUWFの意味を問い続けているんだろうなと。
――Uのひとつの終着点であるMMAが確立されたいま、UWFスタイルにこだわるからには。
――MMAだけがUWFのゴールではなかったんじゃないかと。
中井 ボクはプロレスはできないですけど、それができる人の良さもいっぱいあるんだろうなあと思うんですね。格闘技なのか、プロレスなのか、という問いかけ以前に「このスタイルが好きだ」という思いを持ってないと、やりきれない分野なんじゃないかと思います。
――本当に格闘技としてやるんだったらUWFじゃなくていいし、UWFではないと何か表現できるものがあるんじゃないか。もしくは、本当にUWFが好きじゃないとできないですね。
中井 いまの格闘技はレベルが上がり過ぎて「あんまり面白くない」という声を聞くときがあるんです。レベルが上がり過ぎて逆に面白くない、と。ボクはその意見はよくわからないけど、たしかに攻め合わない試合がはあるとはいえ、その面白さをわかるようになってほしいっていう気持ちは半分あって。その格闘技の面白さを誰にもわかるようにしたものが、プロレスである可能性があるんです。
――現代プロレスの成り立ちはそういうものだったりしますね。
中井 そういう意味では、プロレスは格闘技から切り離さなくてもいいんじゃないかなと思っているところがあります。使う技自体は、大げさになったりしているところあるかもしれないんですけれども、技は技だし、本当にできる技だったりするから、そういったものをより多くの人に届くようにする。見栄えを良くしてスタジアムの端のお客さんまで届くようになりました。いわゆる技のショーウィンドウですよね。
――大会場だとプロレスラーの動きも変わってきますね。
中井 はい。そういうふうにプロレスを理解できるようになりました。
中井 もちろん、そうです。いまさら繰り返すこともないですけれども、ボクは小さい頃、プロレスの熱狂的信者でしたが、そのプロレスに裏切られたと思ってて。プロレスをぶっ殺してやるみたいな感じに向かってやっていくうちに、プロレスラーの方々のプロデュース力みたいなものに、格闘技もお世話になったりするところがあって。道は違えど、結局は総合格闘技がこうして確立されたのでだから、紆余曲折があったけれども、きっと同じことをやろうとしていた速度の違いだったのだろうと。
――ルートの違い、スピードの違い。
中井 ボクらは早く行き過ぎたのかもしれないし、現実的にはもっとね、もっと食える手段を考えなきゃいけないみたいなことがあったから。いまはMMAはほぼ成り立ったというか、最も稼げるスポーツのひとつになりましたよね。K-1のチャンピオンだ、極真のチャンピオンだ、メダリストだとか、みんな軒並みMMAに来たりする。それも結局プロレスラーの人たちがいたからであって。プロレスラーの中にもMMAをやろうと思ったけど、あの時代にそういう舞台がなかった人もいた。そういうものとして考えると、すべていまに向かうためには、必要なことだったんだと思うようになれた気がしますね。
――あらためてお聞きしたいのは、中井先生にとって当時のUWFは、プロレスをより純度の高い格闘技という捉え方なんですか。
中井 ていうか、格闘技だと思ってました。ボクは北海道の僻地だったので、UWFの映像が見れないという特殊な条件下にあって。会場にも来れなかったことで純度が高かったです。あの当時だからUWFの試合を会場で見てもわからなかったかもしれないですね。
――活字のみだと、UWFは幻想的ですよね。
中井 雑誌を読んでると「真剣にやったら、こういった戦い方になるよな」みたいな。真剣に戦ったらドロップキックやフライングボディアタックはやらずに、絶対にネチっこいサブミッションになるよな、と。
――UWFはロープワークをやらないことを含めて、プロレス八百長論に対するカウンター的存在だったわけですよね。
中井 絶対にそう思います。でも、その象徴的存在は猪木さんだったはずなんですよね、本当は。
――「プロレスは最強である」という旗印をもとに異種格闘技戦を展開して。
中井 だけど、UWFに比べると、猪木さんも違うでしょとなりましたね。まあ、猪木さんの場合は見ているところが違ったでしょうしね。
――先ほどおっしゃっていた「UWFに裏切られた」と思ったのはどのへんなんですか?
中井 旧UWFの頃ではないです。映像も見れなかったですから。UWF軍団が新日本にUターンして試合をしてて。最初はまあ、いいかなと思ったんですが、だんだん戦い方がプロレスっぽくなってきて、やっぱりUWFもプロレスに飲み込まれちゃうのかな……っていう感じがしたんですけど。そこで新日本から離脱して、新生UWFを旗揚げしたんですが……。
中井 そうですね。ただ、ボクは馬場さん派だったんですよ。
――それは面白いですね。馬場派がUに惹かれていくというのは。
中井 新日本プロレスはテレビ朝日の映りが悪かったんですよ。全日本プロレスの日テレは鮮明だったので、何かキラキラしたように見える土地柄だったというところはありますよね。猪木さんは本当に面白い人なんですけど、すごすぎてなんか、ちょっと遠い感じですよね。
――そこにUWFという、真剣勝負を前提するスタイルが出るんだったらプロレスファンとして断固、支持するということですね。
中井 はい。プロレスは最強であってほしかったので。それは猪木さんの下では雲行きが怪しくなってきて。猪木さんとウィリー・ウィリアムスの異種格闘技戦でプロレスが終わったかなというか、やっぱり最強じゃないんだなって。
――元・極真空手で“熊殺し”のウィリーとの試合でプロレス幻想が消えたと。
中井 この試合はプロレスですけど、やっぱりウィリーのほうが強いと思ったんですね。ウィリーのほうが輝いたんですよ。この試合でプロレスに迷いが出てきたときにUWFがやってきたという流れがボクの中にあるんですね。
――中井先生の中で、プロレスラーという存在はショービジネスに身を費やしながらも、本気でやるとなったら強いってことですか。
中井 はい。何かの約束があるに違いないし、たしかにロープにも飛ぶ。でも、それはプロレスラー同士だからできるのであって、他の競技の奴が相手だったら仕留めちゃうでしょうっていう。
――プロレスファンの理論武装として、タイトルマッチのときは真剣勝負から、異種格闘技戦のときは真剣勝負、いやUWFは真剣勝負……と、どんどんと設定が変わっていった。旧UWFが潰れて新日本にUターンしてプロレスをやりながらも、どこか真剣勝負を掲げるような存在であってほしかったんだけど、そうじゃなくなってしまった。
中井 そのとおりです。新生UWFが立ち上がったその時期は、ボクは柔道を始めてたので、わかっちゃったんですね。映像もやっと見れたので、実態がわかったんですよ。横浜アリーナのUWF MIDSUMMER CREATION(1989年8月13日) 、高田(延彦)さんと船木(誠勝)さんがメインですね。
――船木さんの掌底で高田さんが実質KO負けしたけど、そのまま試合は続行されて、高田さんがキャメルクラッチという古典技で勝った試合ですね。
中井 「うわ、キャメルクラッチはないだろう、マジか……」と。UWFもプロレスだったんだって思ったら、本当ショックで。そして、あの頃、『わしらは格闘技探検隊』という本が……。
――荒井勉氏が手がけていた格闘技ミニコミ誌ですね。
15万字・記事19本詰め合わせセットはまだまだ続く……
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