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2月19日「ジャイアント馬場没20年追善興行」の裏側がインタビューがなぜ今頃?? それはわたくしジャン斉藤の録音機器がトラブルにより紛失危機に陥ったからである。機器だけに危機! という猪木さんばりのダジャレはともかく馬場さん追善興行を総監督した木原のオヤジこと木原文人インタビューです!

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――
木原さん! 令和という新時代に入ってしまいましたが、平成最後を締めくくった「ジャイアント馬場没20年追善興行」について聞かせてください!

木原 ボクは総監督として運営に関わらせていただきましたけど、いやあ、本当にプレッシャーでした。これは元子さんのご家族から聞いた話なんですが、元子さんがご存命のときに「もし私に何かあって、こういう興行があるときはオヤジ(木原のあだ名)にやらせなさい」と伝えていたみたいで。これは双肩にずっしりと、かかりましたねぇ。

――
そんな遺言が! 大会の主催者は、馬場さんの肖像権に関する事業を継承した緒方公俊さん。この方は元子さんの姪の息子さんになるんですよね。

木原
 そうです。緒方さんはHISに務めていたんですけど、会社をやめて馬場さんの事業一本で生きていくと。本当にHISをやめちゃったことにも感動しちゃったんですよ。HISといったら、大きい会社ですからね。もったいなぁって。

――
ジャイアント馬場を語り継いでいく存在になりたいということですね。仕事を続けながらでもいいのに、気合が入ってますね(笑)。

木原
 本当にそうなんですよ。ボクは彼を子供の頃から知っていて、いま31歳なんですけど。いまはアチコチの会場に足を運んで「プロレス興行とは何か?」を勉強してるんです。実際に今後も興行をやるかどうかはわからないんですが、彼の仕事は基本的に馬場さんの催事ですよね。馬場さんの肖像権を使って、いろいろとやれることがあるんじゃないかと。馬場さんを後世に伝えていくためにもプロレスの興行をよく知っておきたいみたいなんです。いままでもプロレスの会場には来てましたけど、お客さんとして見てきたプロレスと、自分たちが運営していくプロレスはまた違いますからね。その姿勢は素晴らしいと思いますよ。

――
今回の「ジャイアント馬場没20年追善興行」開催はどういう流れだったんですか?

木原
 馬場さんが亡くなって20年目ということで、元子さんがご存命の頃からいろんな話があったんです。昨年末からお正月にやっていた渋谷の東急百貨店「ジャイアント馬場展」なんかもそのひとつなんですよ。

――
キャディラックから始まり、馬場さんのお宝が展示される中、全日本プロレスゆかりのファイターのテーマ曲が1日中流れていたジャイアントな催事ですね(笑)。

木原
 そんな流れもあって追善興行の話も出たんですが、ボクは後楽園ホールで、元子さん時代の全日本プロレスを再現できればいいのかなあ……くらいに思ってたんですよ。

――
元子さんの追悼も兼ねて。

木原
 でも、ご家族はそうではなくて「もっと大きく追善興行をやりたい」と。会場は両国国技館でやると言い出してビックリしちゃったんですよね。いまのプロレス界で両国を超満員にできるのは新日本さんぐらいじゃないですか。 

――
どこの団体も両国に進出していますが、パンパンに埋めるのはなかなか大変な会場ですね。

木原
 「本当に両国にやるんですか?」って驚きました。両国さんから「この日だったら空いてます」っていう日程候補を3つぐらい提案されたんですが、その中から選んだのが2月19日。偶然にも「プロレスの日」だったんですよ。

――
1955年2月19日に力道山・木村政彦vsシャープ兄弟が行われたことから「プロレスの日」とされていて。

木原
 「プロレスの日」だから2月19日にオーダーしたわけじゃないんですよね。こんな大きな興行がはたしてできるのかどうか……ってことで頭は精一杯でしたから、そんなところまで頭は回してる余裕はなかったんです。 会場を抑えた何時間後に「ああ、プロレスの日だ。これはツいてるなあ」ぐらいでした(笑)。 

――
大きい会場に見合うプランはあったんですか?

木原
 いや、何もなかったです。でも、「白いキャンパスに絵を描くと面白いなぁ」という馬場さんの言葉を思い出し、ゼロからやるしかないかなと。当初ブッチャーさんの引退式の話もなかったですし、各団体とお話をして、OKならばいろいろと決めていくという段取りで。本当にゼロからでした。

――
まず会場ありき! 本当にプレッシャーですね(笑)。 

木原
 大会前は夢で何度もうなされましたからね。大会がなかなか終わらなくて深夜2~3時にようやく全試合が終わって、両国の関係者にメチャクチャ怒られる……という夢で。

――
ハハハハハハ!全女でもありえないですけど。

木原
 もうひとつプレッシャーになったのは、東京スポーツさんで報道されたときに「オールスター興行開催!」みたいな見出しになっちゃったんですよ。あくまで馬場さんの追善興行ですし、たしかに各団体に協力はお願いするんですが…… オールスターとまで煽られると(苦笑)。

――
ハードルがジャイアントになっちゃたんですね(笑)。各団体との交渉は順調だったんですか?

木原
 そこはご家族の方が連絡をしていただきまして、皆さんご協力をいただけることになったんですが、やっぱり馬場さんの追善興行ですから、馬場さんのカラーをどう出すのかが問われるじゃないですか。馬場さんが亡くなられて20年経ってしまったので、プロレス界の環境も大きく変わってますし、景色が全然違いますよね。馬場さんゆかりの選手は何人もいない中、そこでいかにジャイアント馬場色を出せばいいのか。となると、まずは馬場さんと接点の深いレジェンド外国人なんですよね。スタン・ハンセンやドリー(・ファンク・ジュニア)さんは不可欠ですし、ブッチャーさんが日本で引退式をやりたがってるという話を聞いて。

――馬場さんの匂いがする外国人レスラーを呼んだわけですね。

木原 さらに大きかったのは猪木さんが来場されたことですね。ファン目線からすると、馬場さんといえば猪木さんでもあります。猪木さんをはじめ、すべての選手や関係者のスケジュールが空いていて無事に来場されたのは奇跡ですよ。ブッチャーさんが体調不良で来られなくなったら、20万円のブッチャーシートはどうなるんだろう?って心配でしたから。

――
高齢ですから体調を崩されることも充分考えられますし。

木原
 テリー(・ファンク)さんにもオファーしたんですけど、 奥様のご容態がわるくて、つい最近テリーさんの奥様は亡くなられました。デストロイヤーさんも同じく体調面に問題があってメッセージをいただたんですが、そのあと3月にお亡くなりになって……。

――
最後のメッセージが馬場さんの追善興行というのも運命的というか。
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