ズンドコ・トラブル興行研究会――プロレス格闘技のウラに精通する書き手たちがマット界を騒がせたズンドコな事件を振り返ります! 今回は昭和プロレス研究家の小泉悦次さんによる「史上最低の馬場vsブッチャー」です!
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全日本プロレスのマッチメークは「お堅い」イメージでした。ならば、ズンドコ興行はなさそうなものなのですが、「お堅い」ゆえのズンドコ興行はやはり存在しました。それを追って見えてきたものは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「欠場観」です。馬場は説明なしに試合に出続け、猪木は試合に出るのも休むのも説明付きでした。
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全日本プロレスのマッチメークは「お堅い」イメージでした。ならば、ズンドコ興行はなさそうなものなのですが、「お堅い」ゆえのズンドコ興行はやはり存在しました。それを追って見えてきたものは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「欠場観」です。馬場は説明なしに試合に出続け、猪木は試合に出るのも休むのも説明付きでした。
一時、サラリーマン数人で居酒屋に行くと判で押したように「とりあえずビール」。外国人の中には、日本に「とりあえず」という銘柄のビールがあると思った方がいたほどです。
初期の全日本プロレスで「とりあえず」といえばアブドラ・ザ・ブッチャーでした。地方興行でもブッチャー一人で興行師の「買い」は入りやすかったそうです。
馬場対ブッチャーといえば、初対決は70年9月5日の東京スタジアム。最後のシングル戦は、89年9月2日の日本武道館。ド迫力乱撃戦の初対決から「伝統芸能の域に達した」といわれたラストシングルまで、時代時代でお客さんを満足させてきました。そんな数多い馬場対ブッチャーのワーストマッチは、77年4月8日の後楽園ホールだったと思います。
当時の全日本の特徴に新日本プロレスが死んでも真似できないほどの豪華外人を揃えることがありました。しかし、ブッチャーが来たシリーズは、ブッチャーだけでソコソコ客が入るので、他の外国人レスラーの質を落とすこともありました。このシリーズにはスーパー・デストロイヤー(ドン・ジャーディン)、ブル・ラモスも一応来てはいましたが、彼らに興行の柱となる力はありません。興行的にはブッチャー頼りでした。
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