「好きを仕事にする」ことはほんとうに理想的な生き方だろうか?
ども。最近、日々、わりとディープな記事を書いているのでそろそろ疲れてきた海燕です。さすがに記事のストックが尽きてしまったので、あらためて作り始めるべく、この文章を書いています。
いやー、それにしても、最近、「戦場感覚」の話をいくつか続けて書いているわけですけれど、どこまで通じているのでしょうね。
ぼくが云っているのはつまりは切り分けの話で、「社会」は人間に優しく作られうるし、また作られるべきだけれど、「世界」は本質的に人間に優しくない、ということです。
そして、人間がどんなに優しげな「社会」を構築していっても、「世界」の残酷さは消えてなくなりはしない。それは「社会」という網目の裂け目から時々顔を出して、ひとを呑み込んでしまうものである、という話。簡単なことですね。
この「世界の残酷な理不尽さ」のことを「自然世界のリアル」と呼び、人間が生み出した人間に都合が良い約束事である「人間社会のルール」と区別しているわけです。
いまの社会は「人間社会のルール」が相当に広く行きわたっているので、ひとはめったに「自然世界のリアル」と遭遇しないで済みます。しかし、まさにそうであるからこそ、この社会に「真綿で首を絞められるような窮屈さ」を感じるひともいることでしょう。
生まれてからずっと、「ほんとうの世界」から切り離されて人工の都市とシステムにだけ囲まれて生きているのですから、あたりまえと云えばあたりまえです。
そうやって都市生活を続けるなかで失われてゆくもの、それは「生きているという手ごたえ」、あるいは「生の実感」と呼ばれる感覚でしょう。
いま、自分はたしかに生きているという生々しい感触、それがあって初めてひとは自分の人生に実感を抱くことができるわけです。その「手ごたえ」が失われてゆくとどうなるかということは、たとえば漫画『自殺島』に描かれています。それはなまじの逆境よりも辛く苦しい孤独の地獄なのです。
日本の自殺率がより生活がきびしく、希望も見いだしづらいはずのいわゆる発展途上国よりはるかに高かったりするのは、ひとつにはここらへんのことも関わっているのではないでしょうか?
わが日本――というより、近代先進社会での生活は、「ただ生きているだけ」では幸福を見いだしづらい状況があるんですね。それでは、どうすれば良いのか?
いまのところのぼくのひとつのアイディアは、「ささやかなしあわせの手ざわり」を大切にすることでどうにかならないかというものです。「現代幸福論」と題した一連の記事は、そういう発想のもとに書かれています。
最近、ひとに薦められて『くーねるまるた』という漫画を読んだのですが、そこでは貧乏ながら「ささやかなしあわせの手ざわり」を感じさせる出来事が豊かに綴られていて、まさにこういうことだよな、と思わせられました。
人生の豊かさとは、お金があるとか会社で高い地位に就いているとか、そういうこととはまったく関係がないところにあるものなんですよね。
ペトロニウスさんが、幸せになるために必要なものは趣味と友達、と喝破しているけれども(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1)、ようは自分の人生を捧げるに値する「価値あるもの」が存在するかどうか、そしてその「価値あるもの」を共有できる仲間がいるかどうか、で大きくは決まってしまうということなのだと思う。
で、いままでは何かしら好きなものがあったら、それを仕事にして、それでお金を稼いで生きていくということが、いちばんの幸せ、自己実現、夢を叶えることとして語られてきたところがありますよね。小説が好きだったら作家を目ざすべきだ、みたいなね。
でも、それってどうなんでしょうね?
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