TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。「あなたに何がわかるのよ 私みたいにさえないみっともない子の人生が あなたやニッキーみたいにきれいでかっこいい人には絶対わからないわ にせものでいいのよ 知ってる人になんか もう会いたくない!! だって家族も友人もずーっと私の事なんかばかにしてるんだから」そんなフレッカに向かって、タスクは述べる。「ばかにしてなんかないよ 誰も君の事をばかにしてなんかいないよ 君はうすれてゆく意識とたたかいながら 苦しい息の下 必死でくりかえした “ニッキーがあぶない” “ねらわれてるのはニッキーだ”って おかげで犯人の男はすぐにとりおさえられた 君の言葉がニッキーを助けたんだ ニッキーも彼女の家族もどれほど君に感謝しているか そしてきのうまでぼくは君の事なんか全然知らなかった でも今は思ってるよ あんな恐ろしい目にあいながら なんて勇気のある女の子だろうって」ここには真実の物語がある、とぼくは思う。そしてこれこそぼくが求めてやまない物語の形なのだ。わかるだろうか。これは勇気の物語である。恐怖と絶望があるからこそひときわ輝く勇気の物語である。ひとが偉大でありえるという話、人間の燦然と輝くプライドのストーリー。ここにこそ美がある。人間存在の美、ひとの魂の高潔さの美しさが。そう、ひとは己の業を呪い、どこまでも堕ちてゆくこともできる。一方、フレッカであることもできる。そして、ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。いうまでもない、だれもがフレッカでありえるわけではない。しかし、だからこそその高貴さは際立つ。
で、この記事に対し、こういうコメントが付いたわけです。
海燕さんは、フレッカとは別のものを目指す人達をどう見ているのですか?海燕さんがフレッカの高貴さに憧れることと、「ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。」と思う事は別だと思います。例えば、「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が、フレッカ(恐怖と絶望に立ち向かう人)に、必ずしも劣るわけではないと思うのですが、いかがでしょう?バイソンにはバイソンの生き様があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方があって、それぞれ等しく尊ばれるものだと思います。
ここから先は有料になります
ニコニコポイントで購入する
チャンネルに入会して購読する
- この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
コメント
(著者)
浅学にして知らなかったのですが、「水は低きに流れる」は孟子の言葉から来ているそうです。へー。本編でもふれていたっけな?
こんにちは。バイソン亀ヤギのコメントを付けた者です。返答ありがとうございます。
一つ質問です。海燕さんは「3月のライオン」の高城さんを、"戦う人"と見なしますか?
私は、彼女もまた"戦う人"に見えます。
彼女が佐倉ちほちゃん達にした行為は非難されるべきです。なぜなら他人の尊厳を傷つけているからです。
しかし、それとは別に、彼女も彼女の戦場で戦っていると思います。それは9巻で先生と対話した後のことではありません。
それより前に、彼女がいじめを行っている最中でも彼女は戦っています。
彼女の戦場はひなちゃんのように雄々しくもなく、零くんや二階堂のように厳峻でもない、
見えにくい地味な所です。
私は高城さんが精神的に堕落しているとは思えません。
本当に堕落している人は、自分に疑問や迷いを持たないからです。
彼女の姿勢や行いを支持する/非難する ことと、彼女が戦っている/戦っていない と見なすことは別です。
私は彼女の行動を支持しませんが、それでも彼女の健闘を祈って「ファイト!」と言いたいです。
(「己の罪を悔み、改心する」といった解りやすい成長ストーリィを彼女に望む訳ではありません。)
あるいは、通りすがりの人が今の佐倉ちほちゃんを見た時に「ウジウジして周囲から甘やかされている、ぶりっ子ちゃん」に見えるのかもしれません。