「正しさ」に酔っぱらってしまわないように。
非常に面白く読めた。フェミニストの視点から書かれた本という意味では、愛国女性を高らかに称揚している(らしい)佐波優子『女子と愛国』とある意味で対になっている一冊といえるのかもしれない。いずれ、『女子と愛国』にも目を通してみたい。
本書のなかで、北原たちは、「愛国女子」たちを観察し、彼女たちと対話し、ときにはいっしょに旗を振ったりする。そして、それにもかかわらず理解しきれない存在に留まる「愛国女子」たちを前に疲弊し、困惑する。
一見して「普通のひと」、あるいは普通よりもっと上流の階級のひとであるようにしか見えない女性たちが、それにもかかわらずなぜ「愛国活動」に走るのか? それがわからない、と。
実は本書を最後まで読んでもその理由ははっきりしない。そういう意味で、この本は決して爽快なカタルシスをもたらしてはくれない。しかし、まさにその「もやもや感」こそがリアルであるという気がする。
そこには、「日本を愛していると語る女など異常だ」という一方的な決め付けはない。それどころか、著者たちは彼女たちを見つめるうちに、左派やフェミニズムの問題点にも気づかざるを得なくなってゆく。
愛国を語る人々にとって、国を愛することは「普通」であり、「自然」であり、「あたりまえ」であることが多い。しかし、この世にあたりまえのことなど何ひとつないのだ、とぼくは思う。
あたりまえとは、ようするにその人がそこで思考停止したことを意味しているに過ぎない。現実に、自然に国を愛したりしできないひと、あるいは愛そうとも思わないひとなどいくらでもいるではないか。
この場合の「あたりまえ」とは、そういった人種を排除した上でしか成り立たない理屈でしかない。もっとも、かれらにいわせればその手のひとは「真の日本人じゃない」のかもしれないが……。
結局、「国を愛することが普通」も、「国を批判するのが当然」も、同じコインの裏返しである。個人的には、「自分の頭で考えてみることが大切」と思うが、じっさいにそんな手間がかかることをこころみるひとは少ない。
たとえば南京事件や従軍慰安婦問題の真相を知るために、自分で史料を掘り返してみるひとなど、どれくらいいるものだろう。肯定派であれ否定派であれ、大半のひとは漠然とそれが真実だと考えているか、「ネットで真実を知って」盲信している可能性が高い。
それにしても、仮に「マスゴミ」や日教組が「ウソの歴史」を流しているとしても、それではネットで語られていることが「真実」である根拠はどこにあるのだろう?
表が間違えているから裏は正しいに違いない、とは幼稚な理論というしかない。結局、ひとは信じたいことを信じ、信じたくないことは「否認」するのだ。
日本人は悪いことなんてしているはずがない、と思いたいひとはそういうふうに考える。日本人はひどいことをしてきたから反省しなければならない、と考えるひとはそう信じる。
それは一部のアメリカ人が広島の原爆攻撃には必然性があった、と根拠もなく信じるのと同じ心理であり、人間普遍の心理といえることだろう。
いずれにしろ、そうやってある思想を信じ込んだひとたちは、新しい事実を突きつけられても、受け入れることはむずかしい。ただ、相手を嘲笑し揶揄し、「まったくこれだから」とため息をついてみせるだけである。
原発問題だろうがタバコ問題だろうが、まったく同じ構図がある。ようするにある主題を巡って、その双方が自分の「正しさ」にうっとりと酩酊してしまっている問題があるわけだ。
あるいは自分は正しいのだからいくら相手を揶揄しようが嘲弄しようがかってである、と思われるかもしれない。「1+1=2」という式の圧倒的な「正しさ」を理解できない人間を笑いたくなるのは当然ではないか?
しかし、その「正しさ」の成否はともかくとして、ある存在を嘲笑してしまったとき、そのひとは完全に思考停止することになる。
「真実を知っている賢い自分」と「呆れるほど愚かな対象」との位置関係を自明のものとし、それを半永久的に固定化して自省を忘れる。これは、堕落の始まりである。
相手がネトウヨであろうが疑似科学信徒であろうが同じことだ。いや、むしろ、思考停止して楽になりたいからこそ、ひとはだれかを笑うのかもしれない。
そうはいっても、たとえば歴史修正主義や疑似科学をもてあそぶような輩(あるいは低能のサヨクやばかげたフェミニスト)に対しては自然と笑いがこみ上げてくるではないか?といわれるかもしれない。
しかし、そこで重要なのは、そのこみあげてきた笑いを相対化し、自分自身の愚かさを直視する視点である。自分自身もまた、自分が笑おうとしている存在と大同小異であると認めることである。
これは非常にむずかしい。やはり、愚かなものは愚かではないか、と思わずにはいられない。しかし、たとえそうだとしても、自分自身に無限の正義がそなわっているわけではないということを認めない限り、その種の人々の同類に成り下がるだけだろう。
ぼくはいかなる「正しさ」もある種の相対化をまぬかれえないと考える。いや、物理法則のような科学的に導かれた「この宇宙の法則」は絶対の正しさを持っているのかもしれない。
しかし、人間社会における道徳や倫理はどこまで行っても「人間同士の約束事」であるに過ぎず、たとえば「殺人はいけない」、「戦争はいけない」といった理屈にしても、絶対確実な裏付けがあるわけではない(だから、現実に殺人も戦争もなくならない)。
そうかといって、「何もかも相対的なのだ」といって、悦に入っているわけにもいかない。ぼくたちはこの社会で生きる以上、何らかの「正しさ」にコミットする必要性がある場面に遭遇するだろう。
そういうとき、どのような態度が理性的だといえるだろうか? まず、
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