週末作家入門 まず「仕事」を書いてみよう (講談社現代新書)

 ひとには色々な個性があり、才能があり、能力がある。

 いま地上に生きている数十億人の人々は、すべて異なるパーソナリティーの持ち主であって、代替可能な存在などありはしないのだ。

 しかし、そうは云っても比較的よく似た性格はあるもので、そういうものはグループに分けて分類することが可能であるかもしれない。

 ぼくが思いついた性格分類に「作家向きの性格」と、「評論家向きの性格」というものがある。両者はまったく異なる資質を要求されると考えているわけだ。

 もちろん、両者を兼ね備えているひともいるが、きわめて少ない。

 ふつう、小説が書けるひとは評論できないし、評論に向いているひとは作品を生み出せないものなのだ。優れた作家が褒めている作品がおもしろいとは限らないのである。

 スティーヴン・キングあたりを見ているとよくわかるのだが、天才的な作家が必ずしも有能な本のソムリエではないということ。

 ついつい「スティーヴン・キング絶賛!」とか書かれてある帯を見ると騙されて読んでしまうんですけれどね……。

 それでは、両者の差はどこにあり、どんな条件で決まっているのか。ぼくはそれは、「ナルシシズムから生まれる思考のオリジナリティ」で決まってくるのだと思う。

 つまり、作家になるような人間は、他者の思考の影響度が相対的に低い、オリジナルな発想を持っているものなのではないか。

 いい換えるなら、自分のなかでナルシスティックに反芻しつづけたオリジナルな思考だけが、小説なり漫画なり彫刻なり映画なり――という形で、世にでることができる。

 付記するなら、ぼくにはこの「オリジナルな思考」の能力がない。だから、ぼくは小説を書くことができないのである。

 これは才能がないとかいう以前の問題で、そもそも向いていないのである。

 つまりはぼくは作家向きか評論家向きかといえば、あきらかに後者の人間なのである。いや、作家には向いていないだけ、ということもできるが。

 ぼくにはオリジナルな思考はない。なぜかといって、すぐ周囲に影響されるからだ。

 ひとがオリジナリティを保つためには、ある程度、周囲の影響をシャットダウンできることが必要だ。

 これがぼくにはできない。ぼくはものすごく周囲の環境に影響される。ある意味では、確固たる自我を持っていないわけである。

 だから、長いあいだぼくを観察しているひとは、その時その時によって云っていることが違うことがわかると思う(笑)。

 よしあしでは