いままで正直よくわからなかった『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』あたりの位置づけが明確になった感じ。あれはやはり宮崎駿にとって本意の作品ではなかったのだということですね。
かれの「少年の夢」にひそむ闇、邪悪、それがたとえば『カリオストロの城』のカリオストロ伯爵になり、『天空の城ラピュタ』のムスカになって出ているのだけれど、宮崎自身はそれを認められなかったのかもしれないという話は殊におもしろかった。
その意味でルパンとカリオストロ伯爵は同一人物で、パズーとムスカは同じ夢のうらおもてなのだけれど、宮崎は光の面だけを強調しようとする。
漫画版『風の谷のナウシカ』のような大傑作を見ると、かれはとっくに「少年の夢」の両義性に気づいていて、自身の悪に自覚的であるように見えるけれど、実は必ずしもそうではないのかもしれない、と。
宮崎は「遅れてきた軍国少年」で、飛行機かっこいい、戦車かっこいい、世界を救うの素晴らしい、という価値観の持ち主なんだけれど、やはりそこにはカリオストロ伯爵的なもの、ムスカ的なものがどうしても付きまとってくる。
で、宮崎はこれは倫理的にやばい、子供にこんなものを見せてはいけない!ということで、そういうダークサイドを封印しまくって、それで『紅の豚』みたいな映画ができあがったということなんですけれどね(笑)。
やはり「少年の夢」にダークサイドは付き物ですから、ダークサイドを封印すると作品そのものが腑抜けていくんですよね。
ルパン三世だけでは物語は成り立たず、どうしてもカリオストロ伯爵が必要になるんです。そもそもルパンとカリオストロは宮崎駿のべつのペルソナに過ぎないんだから、一方を封印することなどできるはずもない。
しかし、それでもあえて封印しようとすると、『ハウルの動く城』のハウルみたいになってしまう。非常に傍観者的な、非宮崎駿的なキャラクターになってしまうのです。
ここ数作の宮崎映画は、興行的にこそ成功していますが、「何か違うよな……」と思っていたひとは多いはず。
そして『風立ちぬ』を見たあとだと、「やっぱりそれはそうだったんだよな」ということがあらためてわかるわけです。
ただ、むずかしいのは、そういうダークサイドが去勢されていたからこそ、「安全な物語」「家族向けで安心して見れるアニメ」として、宮崎駿の映画が評価されていった側面があるわけです。
「遅れてきた軍国少年」である宮崎駿が紡ぐストーリーは、本来、きわめてプリミティヴな「男の子の物語」です。
主人公はどこまでも強く、ヒロインはどこまでも可憐でなければならない。塔の上のラプンツェルを助けだす若者――あまりといえばあまりに大時代な、そういうお話が好きなひとなんですね。
で、じっさい『ラピュタ』とか『トトロ』くらいまではそういう物語を展開していたわけです。
そこにはダークサイドの化身としてムスカとかが出てくるんだけれど、宮崎は「それは悪だ」「否定されるべき存在だ」というスタンスを崩していなかったのではないか。
くりかえしますが漫画版『ナウシカ』を見ると、そういう善悪を超越した立ち位置を是としているようにしか見えないのだけれど、実はそうではなかった。
やはり宮崎駿にとってムスカやカリオストロ伯爵は悪役でしかなかったのです。かれらはルパンやパズーの裏の面であるに過ぎないにもかかわらず、です。
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