「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
ひとはいつから飛ぶことを夢みてきたのだろう。鳥のように自由に翔けたいという一途な想いは、数しれない失敗を経て飛行機へいたる。鳥より速く、高く、青空を飛翔する美しい機械。
しかし人々はさらに速く、さらに高くと望み、そうしていつしか飛行機は殺戮の化身と化した。空戦の時代!
宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』は、第二次世界大戦前夜を舞台に伝説の飛行機「ゼロ戦」を生み出した青年、堀越二郎の半生を描いた傑作映画である。
実在の堀越については何も知らない。劇中の二郎は颯爽とした若者だ。弱者に優しく強者にへつらわず、つねに凛然とし、飛行機の翼の形ばかり考えている男。機械好きの少年が、そのまま歳をとって大人になったような好人物。
だが、そんな二郎が生み出す飛行機たちはやがて戦争の道具となり、ひとを殺してゆく。かれの夢はどこまでも血まみれだ。それでもなお、二郎は知力のかぎりを尽くして設計を続ける。その頭脳から次つぎと生み出されてくる翼! 胴体! コックピット!
二郎の才能は疑いようがない。しかし、その天才のなんと呪われていることか。二郎が生み出した機体に数かずの前途ゆたかな若者たちが乗り込み、そして二度とは帰って来なかった。
二郎自身、映画のクライマックスで「一機も帰って来なかった」と呟く。かれが飛行機にかけた夢がどれほどの青少年の人生を断ち切ったことか。
たしかに二郎もまた戦争に翻弄されたひとりではある。だが、ひとことで「戦争の犠牲者」とはいいきれない。かれもこの世に地獄を生み出したひとりでもあるのだから。
くり返す。ぼくは実在の堀越二郎について何も知らない。しかし、映画のなかの二郎は戦争をすら利用し、己の夢の飛行機を生み出したエゴイストともみえる。
その戦争の酸鼻を、映画は決して描かない。映画のなかで飛行機はあくまでも美しく、その描きだす流線は自然美の結晶とも思える。
この映画は暗黒の現実に幻想のふたをして、ひとりの男の夢の人生を描いている。そのふたの下にあるものは地獄だ。戦争の地獄、人類自身が生み出した地獄だ。だが、映画はその悽愴の一切を封印し、飛行機にかけた「少年」の夢だけを追いかけてゆくのである。
欺瞞、とみるひともいるだろう。反戦の名のもと二郎の人生に反感を抱く向きもあるかもしれない。
たしかに二郎は戦争に翻弄されたばかりではなく、戦争を活用したひとりだ。いまだ日本は貧しく、戦争がなければ二郎の飛行機は飛ばなかったかもしれないのだから。
飛行機は美しい。しかし、その飛行機が行う虐殺は悪夢そのもの。その絶望的な矛盾にひき裂かれながら、二郎は設計をやめない。それがかれにできる唯一のことだというように。
こう書くといかにも波瀾万丈の話のようだが、物語は必ずしもドラマティックに盛り上がっていかない。宮崎はここであえてドラマティックであることを禁じているようにすら思える。
この作品はむしろストイックにひき締まっている。ただひとりの青年の恋と天才とが、淡々と綴られてゆくばかり。
恋。そう、劇中、二郎はある少女と恋をする。菜穂子。白い帽子をかむり、大きなパラソルのした、キャンパスに向かっている娘。あるとき出逢い、また再会した二郎と菜穂子は、情熱的に愛しあう。
菜穂子は当時としては不治の病だった結核にかかっていた。しかし、病すらふたりを離すことはできない。不毛の恋は二郎をより鋭くし、その天才をいっそう磨きあげる。
メロドラマといえばその通り。飛行機狂の青年と結核の少女とは、あまりに古風な取り合わせである。ただ、この場合、その古めかしさがなんとも心地よい。
どこまでも美しく描き込まれた在りし日の日本を背景に、リリカルにセンチメンタルに物語は綴られてゆく。二郎は菜穂子を愛するあまり、病身の彼女を傍におく。
どこまでが愛で、どこからがエゴなのか、だれにわかるだろう。その愛。その執着。ふたりの行き止まりの恋は切なく胸に迫る。
また、この映画には「死の翼アルバトロス」や『風の谷のナウシカ』や『紅の豚』、そのほかの作品につらなるイメージがしばしば顔をみせる。それはなんらかの集大成というより、ここからすべてが始まっていったのだと思わせる。
クライマックスで二郎とドイツの技術者カプローニがたたずむ「夢の王国」とは、宮崎駿そのひとの心の原風景でもあるに違いない。
風立ちぬ。いざ生きめやも。
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