特別講義 コミュニケーション学

 リア充。たくさん友人がいたり、愛する恋人がいたりするひとを指してぼくたちはそう呼ぶ。いうまでもなく「リアルが充実しているひと」の略だ。

 多くのひとがいうには、リア充には高い「コミュニケーション能力」があるのだという。それこそまさにリア充と「非リア」を分かつ能力であって、リア充の人生を輝かしいものにしている秘密なのだとか。

 コミュニケーション能力とは何だろう? 具体的にどういうものなのだろうか? 一般には、それはたとえば初対面のひととでも臆せず会話できる能力であったり、軽いジョークを織りまぜて話を盛り上げる技術であったりするのだろう。

 しかし、ほんとうにそれだけがコミュニケーション能力のすべてだろうか。コミュニケーションとは、そんな底の浅いものなのだろうか。ぼくは違うと思う。

 ひととひととのコミュニケーションとは、ただ明るく朗らかに接すればいいというものではない。ときには相手の心の奥に踏み込まなければならないときもある。また、自分の暗黒面を晒さなければならないことも。それらすべてを含めて「コミュニケーション」なのであって、ただ気楽に会話を楽しむことだけがそうなのではない。コミュニケーションとは時にひととの間に「絆」を築く作業なのだ。

 思うに、ただ浅く表面だけを撫でるようなコミュニケーションと、心の奥まで晒してほんとうの意味で対話するようなコミュニケーションでは、自ずと異なる能力が必要とされるのではないだろうか。

 浅く表面的なコミュニケーションでは、たしかに容色や資産といった要素がいくらか物をいうかもしれない。しかし、「魂の交流」ともいうべきディープなコミュニケーションでは、そのような要素は意味を持たない。

 当然だろう。あなたは人生の重大な決断について相談するとき、相手の容姿で選ぶだろうか? 生涯の友人を選ぶとき、相手が金持ちかどうかで判断するだろうか? もしそんなことをするひとがいるとしたら、愚かというしかない。

 つまりは深いレベルでのコミュニケーションで重要となるのはそのひとの人格そのものなのだ。だからほんとうの意味での「リア充」になることは、表面的な友達の数を増やしたり恋人を作ったりすることよりもっとむずかしいかもしれない。

 それでは、ぼくたちはどのようにすれば生涯の伴侶や無二の友人を手に入れることができるのだろうか。