「次なる世代の物語」の胎動。アニメ化決定の話題作『まおゆう』を語り倒す(その二)。(3229文字)
この記事は「「次なる世代の物語」の胎動。アニメ化決定の話題作『まおゆう』を語り倒す(その一)。」の続きです。未読の方はまずはそちらからお読みください。
さて、前回の記事は「善悪二元論」とその解体の限界を『まおゆう』がいかにして超えていくかというところで終わっていた。今回は具体的にそのプロセスを見ていこう。
ペトロニウスさんによると、『まおゆう』が画期的なのは「勇者」と「魔王」の対面という「ひとつの物語の終わり」から語り始めている点にある。「すべての始まり」から語りだそうとすると、自然、尺が足りなくなり、テーマを語り切れずに終わることになるものなのだ。
『天元突破グレンラガン』を見てみよう。この作品でも最終的には「善悪の向こう側」といったテーマが発せられるのだが、物語の最後でそういう問いがなされても、尺の関係で「解決編」を描く余裕がなく、結局は「俺たちは未来を信じているんだ」といったあいまいな言葉で終わってしまうことになった。
ほんとうに善悪二元論を超克するためには、対立と対決の果てに戦うことのむなしさを知りつくした、その「終わり」の地点からはじめなければならないのだ。そこから物語を語り始めることで、初めて「あの丘の向こう」にまでたどり着く物語を描き出すことが可能となる。
それでは「ひとつの終わり」から始まった『まおゆう』はその次に何を描くのか。それは何と農法改革とじゃがいも栽培という、意表をつくところだった。
我々の世界の歴史を追うなら、じゃがいもはそもそも南米大陸を原産とする食べ物で、大航海時代にようやくヨーロッパに伝わることになる。以後、寒冷地でも収穫量を期待できるじゃがいもは「寒い土地」であるヨーロッパを支える重要な基盤となり、際限のない飢饉や戦争を減らすために大きく寄与した。
しかし、それ以前にはヨーロッパにじゃがいもは存在しなかったのだ。作中の魔王の「世界を変える」ための着眼点が非常に具体的かつ現実的なものであることがこの一点でもわかる。魔王(作者)は本気で「あの丘の向こう(既存の物語作品が到達できなかった善悪二元論やバランス・オブ・パワーに根ざす対立構造を超克した物語)」を目ざすつもりでいるのである。
善悪二元論の限界は、ひとつには「いまある世界」を肯定し、それを守りぬこうとするところにある。それに対し『まおゆう』は「いまある世界」を破壊し、さらに「べつの世界に作り変える」ことを試みる。
ここでペトロニウスさんはホッブスを持ち出す。ホッブスの哲学によると、秩序なき自然状態では「万人の万人に対する闘争」が発生する。つまり、あらゆるひとがあらゆるひとに対し不信を抱いたまま戦うことを余儀なくされる。
この認識こそがヨーロッパの政治哲学の基盤であり、また、その後の欧米の偉大なSFやファンタジーの根底にあるものなのだが、『まおゆう』ではこの状態をいかにして抜け出すかというテーマがシリアスに綴られる。
つまり「いまある世界を作り変えてしまおう」という壮大な野心が、現実の人類史の歴史のプロセスを下敷きにした展開によって描かれた物語、それが『まおゆう』なのだ。これこそが「善悪二元論をいかに脱出するか」という問いに対する、橙乃ままれの答えである。総論としては、そういうことになる。ここからペトロニウスさんは詳細な作品分析に入っていく。
『まおゆう』にはひとつ際立った特徴がある。それは各々の登場人物に固有名がなく、「勇者」「魔王」「メイド姉」「青年商人」といった職業、あるいは立場の名前で呼ばれることだ。
それぞれのキャラクターが「なあ勇者」「なんだ、魔王」などと呼びあって会話する様子はシュールといえないこともないが、これはひとつの「情報圧縮」の効果を持っている。情報圧縮とは「漫研」のLDさんによる造語である。それはつまりある物語のパターンが「お約束」として読者の頭に入っていることを前提として展開を省略する技法だ。
たとえば「青年商人」という名前ひとつで、『トルネコの大冒険』などの過去の名作のイメージが自然とよみがえるわけである。
ペトロニウスさんはこの青年商人の物語に注目する。これまでの物語ではあくまで「わき役」のポジションにいた商人は、『まおゆう』のなかでは実にスタイリッシュに描かれている。作中の青年商人は歴史の表舞台に立って拍手喝采を受けることを良しとはしない。ただ影から静かに世界を変えていくのである。
ペトロニウスさんによれば、商人とはナショナリズムとインターナショナリズムの狭間に立つ存在である。商人は自分とは価値が異なるものを見つけては交易し利益を生み出す。そのためナショナリストからは蛇蝎のごとく嫌われる。
商人の理想とは最終的には「いまある世界」を根本から変えてしまうことであるため、いまある世界(国益)を守ろうとするナショナリストからは嫌悪されるわけである。
しかし、『まおゆう』においては青年商人は一方の主人公ともいえる活躍を成し遂げる。かれは人間界の単一の経済圏を交易によってリンクする複数(三軸!)の経済圏から成るマクロ構造に作り変えようとする。
また、侵略や支配といった社会悪はそもそも富を生み出す土地が少なすぎるところから生まれていることを見抜き、土地の生産性を向上させることでその問題を解決しようとする。戦争の悲惨をその根源から解決しようとしているわけだ。
一方、主人公の片割れである勇者は、この長い物語のなかでどのような役割を背負っているのか。それは「脱英雄譚」、つまり「主人公ひとりが特権的に世界の責任を負うヒロイックな物語の解体と再構築」という役割である。
いままで、日本のエンターテインメントにおいて、ヒーローはさまざまな重荷を課せられてきた。当然、歴史的に見ればまさに大量のヒーローがいるわけだが、そのなかでひとり極北的なキャラクターを選ぶのなら、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジにとどめを刺す。
それまで、あらゆる「男の子の物語」では、どんなに苦しくても逃げ出したくても、それでも最終的には「仲間、そして世界を守る」という公益を選択していた。わかりやすい例が先にも述べた『機動戦士ガンダム』のアムロである。かれは何度となく責任から逃れ、脱走するが、最後にはガンダムに乗って仲間と国家を守るために戦う。
ところが、シンジは最後の最後までついにエヴァに乗らなかった。守るべき世界と仲間を放棄したわけだ。これはつまりひとりのヒーローに世界のすべての責任を背負わせようとする「英雄譚」構造の物語が限界に来ていることを示している。
『まおゆう』では勇者というヒーローが抱えるこの種の構造的問題は強く意識されており、日本のエンターテインメントが描いてきたヒーローのイメージを解体しながら、しかしシンジのようにすべてを投げ出してしまわないぎりぎりの線の描写が行われる。
神山健治監督の『東のエデン』では、守るべき人々(大衆)に裏切られた主人公が絶望する様子がくり返し描かれた。しかし、『まおゆう』の勇者は最後まで絶望しない。これは、自分と対等な人間との絆が確保されているからである。魔王や女勇者、また、育ての親である大賢者との関係がそれだ。
『まおゆう』では世界の残酷な暗黒面が包み隠さず描写されている。これは我々読者がそのレベルまで描きこまれていないと納得しないことをわかっているからだ。しかし同時に、それでもなお、ぎりぎりのところですべてが絶望に沈んでしまわない展開が用意されてもいるのだということである。
過去の英雄譚にはたったひとりのヒーローが世界のすべてを背負って苦しむという構造的問題が存在していた。『まおゆう』はその問題を実にあざやかに解決してゆく。それが『まおゆう』という作品が「脱英雄譚」である所以である。詳しくは次回記す。
「その三」へ続く。
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