その結果、つくづく思うことは「人間関係は相性がすべてだ」ということである。いいひとと悪いひとがいるのではない。自分と相性がいいひとと悪いひとがいるだけだ。ぼくはそう考えるようにしている。
自分にとってイヤなひとでも、ほかのだれかとはうまくやっているに違いないのだ。「だれにとってもイヤな奴」というタイプもいないわけではないが、それほど多くはない。あるひとにとっての途方もなくイヤな奴は、べつのだれかにとっての愛すべきひとである。そう考えることが自然だ。
もちろん、だからといってそのひととうまくやれないのは自分が悪いと考えることも筋違いだ。いくらだれかにとってのいいひとでも、自分にとってはイヤな奴であることに変わりはないのだから。そこで、「人間関係は相性がすべてだ」という考え方に帰ってくる。
アルテイシアさんの『59番目のプロポーズ』だったか『続59番目のプロポーズ』だったかで、不幸だった実の親との関係と、実り豊かな義母との関係を省みて、まさに同じことに気付く場面があるけれど、ほんとうに相性は重要だと思う。
「相性」という考え方のいいところは、たとえ関係がうまく行かなくても、自分が悪いとも、相手が悪いとも決め付けなくてもいいところだ。自分も悪くないし、相手も悪くないのだけれど、どうにも相性が合わないだけだ。そういうふうに考えれば自分自身も含めてだれも責める必要がなくなる。だから、ぼくはそういうふうに考えるようにしている。なかなかむずかしいけれど。
島津郷子の名作漫画『ナースステーション』に、性格が悪く嫌われ者の若手看護婦が、頑固で娘とうまく関係を築けないある患者となぜか気が合い、母娘のような関係を築いていく展開がある。
これはものすごく感動的な物語だ。その患者は「だれからも嫌われるイヤな奴」である看護婦の性格のなかの優しさや、無垢なところを見つけ出して認めていく。一方、その看護婦も実の娘に対してはついきびしくあたってしまう患者の良いところを発見し、評価するようになる。
ようするにふたりは相性が良かったということになるのだろうが、ここにあるものはひとを多面的なプリズムとして捉える見方である。ある方向から光をあてたときは単なる「イヤな奴」に過ぎなかった人間も、べつの角度から見たら「いいひと」かもしれない。そんな考え方。自分が見ている人間性がそのひとのすべてではないと知ること。それが大切だと思うのだ。
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