欧州の大衆が持つ主観的な不安と不満と恐怖を描写する一冊。筆者は,自分たちがキリスト教を核として連綿と受け継がれてきた偉大な欧州文化の正統な担い手であり,それが異質なイスラム教世界の侵食によって滅びようとしていると主張する。しかし,そのような主張は歴史的に見て正しくない。「連綿と受け継がれてきた偉大な欧州文化」という概念は幻想である。「欧州」という統一された文化が存在したことは歴史上なく,地理的・階級的にそれぞれ異質な文化のクラスタがあったに過ぎない。「我々」の概念,帰属意識には恣意的な線引きが可能であり,民族も宗教も階級も職種も凝集の一つの核とはなり得るが,それらはいずれも「彼ら」=外部との対比の中ではじめて形成される相対的な意識共同体である。筆者の論は「キリスト教」を核とした「純粋な欧州人」の実存を前提としたものであるが,そのようなものは「ムスリム」という外部を言わば仮想敵と認識しなければ存在しえないものであり,論理が逆なのである。筆者が「偉大な欧州文化」の精華と見做すもの(本書中では引用文の中でモーツァルトが登場するが)の多くは,ある意味においては,今日の「欧州市民」の近い祖先が滅ぼした,現在の彼らとは異質な階級の社会が産み出したものである。結局のところ,本書は19世紀に欧州上流階級が持っていた大衆からの脅威を,彼らを滅ぼした欧州大衆が21世紀になって今度は自分たちを被害者として再演しているに過ぎない。そしてその内容も19世紀的な黄禍論の焼き直しである。筆者はバークの名を持ち出し,「偉大な欧州文化」の保守を訴える一方で,過去の欧州人の米大陸・豪州・アフリカでの行いに対する代償を拒否する。筆者はまた,欧州文化の南米への「移植」を称賛し,それがその地に根付いていた文化の滅びと同義であることからは目を背ける。甘い果実のみを歴史から享受しようとするその態度は,単なる便宜主義に過ぎず,知的に不誠実である。だが,それが欧州の大衆社会の一面なのだろう。確かに,「偉大な欧州文化」は滅び去りゆくようだ。ただし,内側から。
それは「リベラリズムの限界」なのか?
んー、いろいろと書くべきことがあるのですけれど、ちょっとうまくまとめられそうにないので、だらだらと思うところを書いてみます。その「書くべきこと」というのは、この記事の話ですね。
白饅頭さんによる「リベラリズムの限界」に関する記事です。その具体的な内容についてはぜひリンク先に飛んで読んでいただきたいのですが、まあ、「女性の権利を認めて女性が社会進出する社会を作った結果、出生率が下がった。これはリベラリズムの失敗ではないのか」という内容。
非常に的確にリベラリズムの抱える問題点を突いた内容だと思うので、これについて何か書きたいのですが、どうも勉強が足りなくて何も書けない。
だから、いま、リベラリズムとか、ネオリベラリズム、人口学、移民問題、イスラム、そして非モテといったテーマに関する本を読みあさっています。
もう少ししたらこれらの内容をまとめあげた長い記事を書けると思うので、少しだけお待ちください。じつは身内に不幸があったこともあって、いくらか立て込んでいるのです。
この「リベラリズムの限界」というテーマは何かこう、ぼくの心の琴線を震わすものがあって、「ここを掘ると何か出てくる」という予感がするんですよね。というのも、ここ最近、ぼくが考えていることはほとんどこの「リベラリズムの限界」に集約されると思うからです。
非モテ問題なんかはもう露骨にこのテーマですね。で、白饅頭さんはおそらく「いや、リベラリズム、もう無理だろ」という視点から書いていると思うのだけれど、ぼくは同じ問題をもう少しリベラリズムの側に立って眺めてみたいと思っている。
そういう意味では、ぼくはやっぱり理想主義的だし、保守にはなりきれない人間なんだろうなあと思います。やっぱり少年期に田中芳樹を読んで育った刷り込みがいまなお生きている。いや、ほんとに。
で、とりあえず『西洋の自死』という分厚い本を読み始めたのですが、そのまえにまず、Amazonレビューで称賛意見と批判意見を確認してみました。で、批判意見のほうにこういうものがあった。ちょっと切りどころが見当たらないので全文を引用してしまいます。
まだ本を読んでいないので断言はできかねますが、これは、たしかにそうかもしれないと思わせるものがあります。素晴らしい批評だと思いますね。
つまり、「西洋の自死」というとき、何が死ぬことが想定されているのか、ということです。それはまあ、ここにある「偉大な欧州文化」なのでしょう。
たとえばロンドンにモスクが建って教会が減ったり、あるいはイスラム教徒が増えてイスラムの政党が誕生したりすることなのが「西洋の(自)死」なのだと思います。
でもね、そういう意味での「死」は歴史の必然でもあるんですよね。そもそも「偉大な欧州文化」という連続的なカルチャー自体がひとつのフィクションであるに過ぎないという視点を除くとしても、文化、文明とはつねに興亡を繰りかえすものであり、西洋(ヨーロッパ)もまた、いくつもの文化を、文明を滅ぼしてきたわけです。
自分たちだけが永遠に「いまある形」を保ちつづけたいというのは道理に合わない。無理がある。その意味での「滅び」は受け入れるしかないものなのではないか、とぼくは思います。諸行無常ですね。
もちろん、だからといって滅んだりしたくないということもまた人間として当然の心理なので、そのための方策を考えることは自然でしょうが、それでも国家なり文明の「いまある形」を永続的に続けようというのは、時が流れつづけるこの世にあってはしょせん叶わない望みだということ。
いや、この国は、文化は、悠久の昔からこの形で続いて来ていまがあるのだ、だから変えてはならないのだ、といわれるかもしれませんが、それも大方はフィクションでしょう。日本は「単一民族」だとか、その手の虚構と同じ。
また、仮に過去から長く続いて来たものだとしても、だから変化させてはいけないという理由にはなりません。また、そもそもどれほどつよく抵抗したとしても、変化は止めようがないのです。
「時」が流れる限り、かならず状況は変わっていく。人はそのグランド・ルールから逃れられない。国家であれ、文明であれ、その意味ではまた人と同じ。いつかかならず「死」を迎えるものです。それがどのような形であれ。
その視点で「リベラリズムの限界」という話を眺めてみると、また違う風景が見えてくるんじゃないかと思うのですよね。
この「リベラリズムの限界」という表現を、何かべつの言葉に変えられそうな気もするのだけれど、いまは思いつかない。んんー、「理想主義の射程」といっても良いのかな? まあ、そんなことを考えています。もう少々、お待ちくださいませ。はい。
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