佐々木俊尚さんの新刊『時間とテクノロジー』とか綿野恵太さんのポリティカル・コレクトネス論『「差別はいけない」とみんないうけれど。』を読みました。
いずれも非常に面白いです。が、これらの本の内容をまとめて記事にするのは、もう少しお待ちください。いま、ぼくの頭のなかで内容がぐるぐるしているので、いつかそのうちまとまることでしょう。たぶん。
そういうわけで、きょうは「バカ」について話をしたいと思います。この場合の「バカ」とは何か? それはつまり、「自分の価値観を露骨に明示するあり方」のことです。
以前、自称「編集家」の竹熊健太郎さんが「クリエイターはバカにならなければできない」という意味のことを語っていた記憶があるのですが、その「バカ」はこの意味だと思います。
つまり、自分の価値観や美意識などを明示してしまうことは、ある意味で、「弱点」を晒すことでもある。それにもかかわらず、あえてその「弱点」を晒してみせることがクリエイターたるものの条件なのだ、ということでしょう。
そう、クリエイターは、創作にあたって、「はだかの自分」を露出することを求められる。亡き栗本薫の言葉を借りるなら、「小説とはストリッパーである。最後の一枚を脱げないストリッパーになど、何の価値もないのだ」ということ。
で、クリエイターはまさに、「バカ」にならないとできないビジネスであるがために、必ず「バカにされる」ものでもあります。
自分の「弱点」を意図して露出してみせているのだからあたりまえですが、「バカ」なクリエイターは「かしこい」人々からあざ笑われることを避けられない。「こんなものが面白いと本気で思っているのかよ(笑)」というような揶揄は典型的なものです。
で、ぼくはどうかというと、じつはわりと「かしこい」人間なんですね(もちろん、「頭がいい」という意味ではありません)。そして、そのように「かしこい」ため、むしろ、なるべく「バカ」として行動するよう努めてきた、という自覚がある。
このあいだ、かんでさんからいわれたんだけれど、「海燕さんにはバカへのあこがれがある」と。これは、なかなか的確な表現であるかもしれません。
つまり、ぼくは自分の「弱点」を隠して他者を批評するような、ある意味では卑怯なやり方に長けた人間であるため、逆に「バカ」な人間に魅力を感じるのですね。
ぼくが好きなクリエイターは、栗本薫にしても、田中芳樹にしても、あるいは永野護や庵野秀明や奈須きのこなどにしても、非常に「バカ」です。自分の価値観を隠そうというところがない。「はだかの自分」で勝負している印象があります。
たとえば永野護などは、「これがかっこいいロボットだ!」と平気で形にして示す。それは、「こんなダサいものをかっこいいと本気で思っているのかよ(笑)」という揶揄や嘲笑を浴びる可能性を残すことでもあるのだけれど、彼はそういった批判をまったく恐れない。そこがじつに素晴らしいと思うのですね。
ぼく自身がまさにそうなのだけれど、基本的にオタクというのは「かしこい」人種なんですよ。だから、自分の愚かさを隠したうえで、他人の愚かさを攻撃することに長けている。
ぼくはそういう自分の「かしこさ」が非常にイヤで、なるべく「バカ」に振る舞おうとして来ました。その結果、「かしこい」人たちに「弱点」を見せてしまうことになり、いろいろとダメージを負ったりしたのだけれど、それで良かったと思っています。
「かしこい」人って、究極的には何もできなくなっていくんですよ。なぜなら、「かしこい」人の戦術は最終的に「自分は何もせず、他人の行動を揶揄する」ことに終始するから。
「批判」ではなく「揶揄」なんですね。批判したら反論される可能性があるからです。その点、「揶揄」なら「そんなことはいっていない」という逃げ道を残すことができる。
「逃げ道」。そう、「かしこい」人の特徴とは、つねに「逃げ道」を残しておくところにあります。
「かしこい」人の最善の戦術は「自分は何もせず、他人の行動を揶揄する」ことだといいましたが、自己顕示欲がつよい人の場合、「何もしない」というわけにはいきません。
だから、つねに「逃げ道」を残したうえで行動したり、発言したりすることになるわけです。具体的にいうと、「あえてやったんだ」とか「わざとピエロのふりをしてみせただけさ」といった態度ですね。
ほんとうは本心からいったことでも、「あえてバカみたいなことをやってみせただけだよ(笑)」といい逃れれば、致命傷を負うことは避けられる。「かしこい」人はそういうふうに考えます。
岡田斗司夫さんなんかはその典型だと思うのだけれど、つねに発言に「逃げ道」を用意している。たとえば『いつまでもデブと思うなよ』でダイエットを称揚して、そのあとリバウンドしたことなどは、あきらかに失敗なのだけれど、本人は「何、本気で受け取っているんだよ(笑)」と逃げることができるわけです。とても「かしこい」やり方です。
でも、そういう「かしこい」人は批評家にはなれても、クリエイターにはなれない。クリエイターは「バカ」でなければならないからです。一方で庵野さんなんかはものすごい「バカ」ですよね。
ほんとうに自分の「弱点」を、いい換えるなら「限界」を平然と晒して見せてくれている。ぼくはそういう態度に「そこに痺れる! あこがれるゥ!」ものを感じます。で、自分も可能な限り「バカ」であろうとしているわけです。むずかしいですけれどね。
全盛期の高河ゆんさんなども、ものすごい「バカ」だったと思います。一切の「逃げ道」なく、めちゃくちゃ恥ずかしくて青くさいセリフを連発する。こうでなくてはいけない。漫画家かくあるべし、と思いますね。
あるいは「バカ」な人は「ボケ」であり、「かしこい」人は「ツッコミ」を好むともいえるでしょう。で、現代はそういう「かしこいツッコミ」が蔓延してしまった時代なんですね。
そのため、心から「バカ」な作品は減り、「かしこい」マンガやアニメが増えたように感じています。ぼくとしてはそれはあまり面白くない。クリエイターとは、とことん「バカ」であるべきだと信じているからです。
このあいだ見た岩井俊二の『ラストレター』なども、たいがい「バカ」な作品で、素晴らしかった。おそらく、批判する人間もたくさんいるだろうけれど、それでいいんですよ。「批判されないだけ」、「ツッコミを入れるところがないだけ」の作品など、何の価値もない。
「かしこい」人たちは、最後にはTwitterとか、はてなブックマークあたりで「ひとことツッコミ」を入れて悦に入るようになります。「ひとこと」なら、反論を喰らうリスクはかぎりなく低いですからね。「安全」で「安心」というわけです。
そして、「かしこい」人は何ひとつまともなことは達成できていないにもかかわらず、「何もミスを犯していないから」という理由で、「自分はかしこい」という自意識だけがふくらんでいき、一生、人を揶揄し嘲るだけで終わることになるのです。
ぼくはそれがいやだから「バカ」でありたい、と思いつづけている。でも、その勇気が十分でないために、本物の「バカ」になり切れず、つまりはこういうイイワケじみた文章を書いてしまうのだとも思います。
まあ、「ぼくは「バカ」が好きだ!」というそういう文章でした。バカ小説、バカマンガ、バカアニメ、素晴らしい。「かしこいツッコミ」なんてくだらない! ぼくは心からそう思います。
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