1月1日


 

シン・年 明けましておめでとうございます。



 

話は昨日に戻るが、大晦日は、概ね先週書いた通りになった。これは確か一昨年書いたことの二重売りになるが、スガダイローさんのプレイの素晴らしさは、勿論、弾く内容は言うまでもなく「どんな轟音の中でも、くっきり聴こえること」であり、昨年末もそうだった。



 

たった3人とはいえ、常に自分を含む3名のプレイは聞こえていないといけない。その時に、解像度が高い演奏ができる人は、端的にスポーティーなプレイに向いている。セシルテイラーとか、エリックドルフィーとか、タイプ的には、僕もそうだ。音数は当然、多音的になる(「鮮明に聞こえる」ので)。



 

「即興演奏」とか、「純即興」とか言うより、遥かに限定的に「フリージャズ」とすると、スポーティーであるか霊的であるかに大別される。後者のがなんか凄い、何せ霊だから。というようなシンプルな話では全くない。演奏はどんな姿をしていても演奏を超えない。単なるタイプの話だ。



 

スガさんと正反対なのが、つまり霊性が高いのが大友っちである。大友っちの演奏は融解性が高く、音塊として常に全帯域が鳴っているので、「鮮明に聴こえる」時間は、縞状に現れ、つまり共演者にとって来訪神のような霊性を持つ。



 

アルバートアイラーとか、晩年のポール・モーションに近い。轟音の中に置くと、溶けてしまう。環境に与するのである(この事を理論的に再構築したのが大友っちのお師匠さんである高柳昌之の「アイラーコンセプト」である。高柳は60を待たずして59で没した)。音数は当然、少音的(音数が。音量が。ではない)になる。



 

「いやいや、大友さんのロック的ギターの刻みは非常に鮮明ですよ」という人がいてもおかしくない。しかし、あれは実際、同じ打点が一個もないぐらい揺れているのだ(これは「うまい」とか「へた」を意味しない。根源的でアナログなグルーヴに満ち満ちて「環境的」なのである。打楽器を叩きながら一緒に演奏してみればすぐわかる)。揺れのない刻みは時間を生成するが、揺れのある刻みは環境=場を生成する(「catch22」は、というかDCPRG自体を時間側の視点で語り続けて来たが、同時に「場」が形成されていたのは言うまでもないだろう)。



 

これはピアノという平均律内に閉じ込められた楽器か、ギター、サックス、ドラムという平均律の外に容易に出れる楽器か、の違いもあるが、鶏か卵のアレで、フロイドの言う「誘惑者」としての演奏行為として、その性質がそのプレイヤーの性質に現れている。端的にスガさんや僕やセシルは(服装が)お洒落であるのに対し、大友っちやアイラーはお洒落ではない。が、これ(お洒落でないこと)も誘惑行為である。お洒落がボキャブラリーであることは周知のことだ。



 

聴衆はスガさんが「(主に「次に」)何を言っているか」を聴いている。大友っちのボキャブラリーは少なく、しかし、ずっと同じようなことをしていても、もう、音色や佇まいで掴まれているので「何を言っているのかはわからないがシビレている」ような状態に最初から誘導されている。



 

いきなりとんでもない事を言い出すが、僕は、ピアニストとして、ドラムとベースに入ってもらい、ピアノトリオをやろうと思っている。幾つになったらやるだろうか?



 

などと夢想していたら、能登半島地震を知る。急いでクインテットのベースである小西さんにメールをすると、すぐ返事がきて、無事だとわかり胸を撫で下ろす。