>>14 僕が「(日本の)フォークは自殺、ラテンは他殺」と最初に書いてから、もう10年ぐらいたつような気がします。「日本のSNSは、一見ひどいものに思えるかもしれないけれども、欧州や韓国のそれに比べたら全然優しい」とも書きました。順序が逆かと思われるかもしれませんが、日本の前近代は「情死(心中)」にロマンティークとエロティークを明らかに乗せており、それは、情死に追い込まれる社会構造が、そこにロマンティークとエロティークぐらい乗せないとやり切れないから。と考えます。 そしてそれは近代を超え、現代になっても全く変わりません。日本人は自ら抱え込んで死に向かいたがりますし、他者に対する、他殺意を本当に持つことができないのではないか?と思うほどです。仕事柄、殺害予告も受けましたし、ネットで死ね死ね言われ慣れていますが、発言者から「本当の他殺意」を感じたことは一度もありませんし(電話越しの肉声ですら)、ストリートからもどんどん減っています。僕が昭和の銚子記憶に固着するのは、まだ馥郁と他殺意が、僕のいる空間(店の中)で交差していたからで、それでも殺人現場を見たことはありません(半殺しが上限でした。魚市場で死体が発見されても、現場は誰も見ていないし)。僕自身も「うわこれは本当に殺されるかも」と思った経験は、日本ではなく、海外に集中しています。 これも精神医療の上で通説になりますが、自殺意は感染します。外国籍の方で、日本に在住すると憔悴したり恐怖を覚えたりするのは、非常によくわかります。「命の電話」は、そう言う意味では、この国では非常に細いライフラインかも知れませんが、自殺者の記事の真下にちょこんと置く。というのは、自殺の感染性を考えると、現状ではリスクのが高いと思われますし、自殺者の尊厳に抵触しているように思え、何かもっと別の方法があるのではないか?と思っています。自殺者の記事の下にコメント欄があるのも同様に、悪質さのが高いと判断しています。黙祷を妨げるし、潜在的な自殺意を持つ外野が、恐怖から侮辱的なコメントを寄せ得るからです。 「涙目の天使」と書きましたが、文中にある通り、竜ちゃんの体型と、中世の宗教画にある天使の体型からの類推で、現在のわが国では「天使」のイメージ(図象も概念も)が、国家的宗教の統一がないせいで、拡張しきっているので、通じないかな?とも思いました。 「町中華」が1時間番組を2本分(ちゃんと玉ちゃんの前半にエンドクレジットもエンディング曲も流し、しっかり締めてから、若い女性タレントさん=2交代制の回が始まる。という(後半のオープニングマークは、色が逆転しています)、画期的なつくりですが、ドミナントモーションのトニック(解決)が先に来ている。という転倒(裏表の逆転)への着眼は、ラテン音楽に精通している方でないと、意味は通じないと思いますね。 僕や仲間たちは太鼓を持っています。打点を持っているということが、どれだけ生と繋がっているか、笛や三味線と違って、太鼓は、とりあえずですが、誰でも叩ける。という原理は忘れられがちで、昔の日本も、あらゆる場所に太鼓がありました。箸をスティックにコップや皿を叩いている光景も、今の東京ではほとんど見られません。 僕は来月、生まれて初めて子供達に打楽器のワークショップを行います。タイトルは「みんないっしょと、みんなバラバラ」としました(官公庁のイベントなので、表向きのタイトルは味気なく「菊地成孔 リズムワークショップ」になりますが)。子供達がまだ、生命力の塊で、僕がどう指導しようと、言うことを聞かずにメチャクチャに叩きまくって熱狂してしまい、ワークショップなど成立しない混沌になればば良い、と思っています。 8月には、これまた生まれて初めて、銚子市でライブをすることになりました。調子は街自体が死にかけていて、現場は銚子の中央ではなく、周縁の新興住宅街になりますが。 川島雄三は、現在はALS、昭和では小児麻痺と呼ばれる病と闘いながら四十代で、僕が生まれる3日前に亡くなりました(うまく歩けない川島が夭逝したのを見て、伴淳三郎が始めた、小児麻痺児童への基金は「あゆみの箱」と名付けられました)。なので、巷間、川島作品は「濃厚な死の匂いが漂っている」と評されがちですが、これこそ日本の風土による誤謬で、川島作品が、滾るほどの生命、大自然への畏敬に満ちてたかは、再発DVDを見れば一目瞭然たるものであると思います。
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>>14
僕が「(日本の)フォークは自殺、ラテンは他殺」と最初に書いてから、もう10年ぐらいたつような気がします。「日本のSNSは、一見ひどいものに思えるかもしれないけれども、欧州や韓国のそれに比べたら全然優しい」とも書きました。順序が逆かと思われるかもしれませんが、日本の前近代は「情死(心中)」にロマンティークとエロティークを明らかに乗せており、それは、情死に追い込まれる社会構造が、そこにロマンティークとエロティークぐらい乗せないとやり切れないから。と考えます。
そしてそれは近代を超え、現代になっても全く変わりません。日本人は自ら抱え込んで死に向かいたがりますし、他者に対する、他殺意を本当に持つことができないのではないか?と思うほどです。仕事柄、殺害予告も受けましたし、ネットで死ね死ね言われ慣れていますが、発言者から「本当の他殺意」を感じたことは一度もありませんし(電話越しの肉声ですら)、ストリートからもどんどん減っています。僕が昭和の銚子記憶に固着するのは、まだ馥郁と他殺意が、僕のいる空間(店の中)で交差していたからで、それでも殺人現場を見たことはありません(半殺しが上限でした。魚市場で死体が発見されても、現場は誰も見ていないし)。僕自身も「うわこれは本当に殺されるかも」と思った経験は、日本ではなく、海外に集中しています。
これも精神医療の上で通説になりますが、自殺意は感染します。外国籍の方で、日本に在住すると憔悴したり恐怖を覚えたりするのは、非常によくわかります。「命の電話」は、そう言う意味では、この国では非常に細いライフラインかも知れませんが、自殺者の記事の真下にちょこんと置く。というのは、自殺の感染性を考えると、現状ではリスクのが高いと思われますし、自殺者の尊厳に抵触しているように思え、何かもっと別の方法があるのではないか?と思っています。自殺者の記事の下にコメント欄があるのも同様に、悪質さのが高いと判断しています。黙祷を妨げるし、潜在的な自殺意を持つ外野が、恐怖から侮辱的なコメントを寄せ得るからです。
「涙目の天使」と書きましたが、文中にある通り、竜ちゃんの体型と、中世の宗教画にある天使の体型からの類推で、現在のわが国では「天使」のイメージ(図象も概念も)が、国家的宗教の統一がないせいで、拡張しきっているので、通じないかな?とも思いました。
「町中華」が1時間番組を2本分(ちゃんと玉ちゃんの前半にエンドクレジットもエンディング曲も流し、しっかり締めてから、若い女性タレントさん=2交代制の回が始まる。という(後半のオープニングマークは、色が逆転しています)、画期的なつくりですが、ドミナントモーションのトニック(解決)が先に来ている。という転倒(裏表の逆転)への着眼は、ラテン音楽に精通している方でないと、意味は通じないと思いますね。
僕や仲間たちは太鼓を持っています。打点を持っているということが、どれだけ生と繋がっているか、笛や三味線と違って、太鼓は、とりあえずですが、誰でも叩ける。という原理は忘れられがちで、昔の日本も、あらゆる場所に太鼓がありました。箸をスティックにコップや皿を叩いている光景も、今の東京ではほとんど見られません。
僕は来月、生まれて初めて子供達に打楽器のワークショップを行います。タイトルは「みんないっしょと、みんなバラバラ」としました(官公庁のイベントなので、表向きのタイトルは味気なく「菊地成孔 リズムワークショップ」になりますが)。子供達がまだ、生命力の塊で、僕がどう指導しようと、言うことを聞かずにメチャクチャに叩きまくって熱狂してしまい、ワークショップなど成立しない混沌になればば良い、と思っています。
8月には、これまた生まれて初めて、銚子市でライブをすることになりました。調子は街自体が死にかけていて、現場は銚子の中央ではなく、周縁の新興住宅街になりますが。
川島雄三は、現在はALS、昭和では小児麻痺と呼ばれる病と闘いながら四十代で、僕が生まれる3日前に亡くなりました(うまく歩けない川島が夭逝したのを見て、伴淳三郎が始めた、小児麻痺児童への基金は「あゆみの箱」と名付けられました)。なので、巷間、川島作品は「濃厚な死の匂いが漂っている」と評されがちですが、これこそ日本の風土による誤謬で、川島作品が、滾るほどの生命、大自然への畏敬に満ちてたかは、再発DVDを見れば一目瞭然たるものであると思います。