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【第154回 芥川賞 候補作】『ホモサピエンスの瞬間』松波 太郎

2016/01/12 15:59 投稿

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 セントラルヒーティングともたとえられる身体のほぼ中央に位置している心臓には、血液を送り出す心室と、血液を迎え入れる心房が、左右に一部屋ずつあります。正面に向かって、この内の左側の心室からはじまった文字通りの大きな動脈・大動脈は、大きく半円を描いて下に向かい、呼吸、消化、泌尿、生殖といった器官に血液を送り届けます。方角としては西となる足部にまで血液を巡らせた後、毛細血管を介して静脈となり、心臓の右の心房に戻ってきます。このように西回りで循環している下半身とは反対に、頭部には東回りで循環してきます。頭部をかつては〝東部〟と呼んでいた人もいた所以です。極東の孤島のごとき頭部には、大動脈が描いた半円から枝分かれした血管によって血液が運ばれてきているのです。内頸・外頸動脈という名前の血管です。〝頸〟とは簡略すると〝首〟のことです。首というのは、その形状のとおり、橋の役割をもっているのです。大陸のごとき身体の中央と、孤島のごとき頭部とをかろうじて繋ぐ一本の橋の役割を、生誕以来担っているのです。首を渡ってきた血液は、目・鼻・口・耳・毛髪といった頭部の局所をそれぞれ栄養します。もちろん脳も栄養します。酸素をはじめとした血液の中の栄養素が脳に行き着くことで、様々な機能を発揮し、情動をコントロールすることもできるのです。人間として存続するのです。
「……あー」
 ホモサピエンスに還らずにすむのです。
「……あー、いつ来るんだ」
 類人猿から進化した〝知恵のあるヒト〟という意味が込められているラテン語だそうですが
「……あー」
 あくまで一生物としての学名なのです。
「……いつ来るんだ」
 唯一の学名であるため、こう呼ぶほかありませんが
「……いつ来るんだよ」
 人間自身が知る由もない姿がホモサピエンスなのです。
「……本当に来るのか」
 人間らしさを脱ぎ捨てた姿と言っていいかもしれません。
「……来るなら早く来てくれ」
 いつまでたっても生物の一種であることに変わりありません。
「……早く渡って来てくれ」
 生物全体から見ていくと、ホモサピエンスという生物は、けっして突出した体格をもっているわけではない。
「……早く渡って来て」
 大きいものであっても、体長二メートルそこそこ、体重二、三〇〇キロそこそこです。
「……いっそ一思いにやってくれても構わないから」
 それでも、四肢を〝手〟と〝足〟と呼び分けて二本足で立つことのできる数少ない生物の一種であることは事実です。
「……一思いにやってくれて構わない……」
 残りの二本手には、それぞれ鋭利な爪の付いた五本の指が備わっており、潰し、握り、掻き、叩き、殴る、といった動作をとることもできます。
「……もう休みたいんだよ」
 こういった動作をくり返す運動量に比例して、筋肉量も増加します。
「……もう休ませてくれ」
 骨格を覆い隠すほどにまで発達するこの筋肉にものを言わせて、何事もおしすすめてしまう本能が、はなから植えつけられているのです。
「……待ってるだけは辛いんだよ」
 食欲を満たすためにかんたんに他を屠り、性欲を満たすためにも手段を選ばず、睡眠欲を妨げる一切合切を容赦なく排除する??食欲・性欲・睡眠欲という三つの大きな欲求をつつがなく満たすためには、いとうことがないこの動物を止めることができるのは
「……頭も痛くなるんだよ」
 たった一つしかありません。
「……頭も」
 東部に位置する脳のみです。
「……演習ももうしたくないんだよ」
 人間であるか、ホモサピエンスであるか。
「……来襲に備えた演習なんか」
 体重の中でわずか数%にしか満たない脳と、身体とが、一本の橋によってきちんと繋がっているかどうかに、すべてがかかっていると言っても過言ではないのです。
「……もうしたくないんだよ」
 現在も百年前も、そして今後も、この橋の通称は同じままでしょう。
「……いがみ合っているだけの方が辛いんだよ」
 すくなくとも、わたし達はこの橋のことを〝首〟と呼び続けています。
「……いっそ、この橋を壊せよ」
 首が存在することで、脳と身体はたがいに交流し、共存することができるのです。
「……始まるならとっとと早く始まれよ」
 脳と身体の交流が絶え絶えになると、たまに渡ってくる血液自体が敵のようにも感じられてくるようになります。
「……こちらを孤立させるつもりなんだろ」
 いくつかの症状がでてくることにもなります。
「……いつ攻めて来るんだよ」
 このような不眠状態も一つのす。
「……来月か?」
 一晩中同じことをぐるぐると考え続け
「……いや、今月?」
 ひどい時には、考えるにとどまらず
「……来週?」
 実際の声となり
「……いや、明日には」
 さらにひどい時には、自分の声が他人の声のようにきこえだします。
「……明日?」
 自分の声に対して、意味を追求しだし
「……明日って、どういう意味だよ、おい」
 自分の中で口論がはじまったりもします。
「……なんだ、その口のきき方は、おい」
 動物の声のようにもきこえだすのは
「……ババ、ババ」
 末期に刻一刻と近づいている徴です。
「……ババ、ババ」
 橋を通じて新しい血液が巡ってこなくなっているのです。
「……明日ってことは、もう渡ってきてるかもしれない」
 橋を通じて古い血液が身体に還らなくなっているのです。
「……えーと……もう渡ってきてるかもしれない」
 血液同様、言葉も同じものを使い回したりしてしまいます。いくら寝返りをうっても無駄です。床の上で立ったり、逆立ちをしてみても、大して変わりません。
「……もう橋も壊されてるんじゃ?」
 橋の問題なのです。
「……こっちをもう孤立させてるんじゃ?」
 酸素・糖質等の栄養素を吸いつくして黒ずんでいる血液の色にやがて心情も染められ
「……すぐそこにまで潜んで」
 気持ちの方も暗然としてきます。
「……こっちの様子をうかがっているんじゃ?」
 被害をこうむる妄想ばかりが、皮肉にも円滑にすすむのです。
「……すぐそこの草陰に潜んでいるのかも」
 外の景色同様に脳裏にも茂っていたそうである草木に潜んでいる何かが、見え隠れをはじめていたそうです。
「……おい、出てこい」
 いっそのこと自分の方から攻めて
「……出てこい」
 草木を掻き分けることにします。
「……もうわかってるんだ、橋もろともこっちを壊滅させるつもりだろ」
 案外すぐに姿を現したのだそうです。

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。

ホモサピエンスの瞬間
ホモサピエンスの瞬間
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松波 太郎
文藝春秋


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