ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
 誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近付いているようで、なんだか薄気味悪かった。
「うーん、二人が? 俺は別に思ったことないけどなあ。」
 パソコンのことで分からないことがあって電話したついでに聞いてみると、弟のセンタはいつもの、水辺で休んでいる動物のようなのんびりした口調で答えた。
「あれじゃない? いつも二人でいるうちに、表情がお互い似てきたとか。」
「だってその理屈で言ったらさ、あんたとハコネちゃんのほうがもっと似てないとおかしいじゃないの。」
 私はセンタに教えられた通り、パソコンのフォルダを開きながら言い返した。
 センタと彼女のハコネちゃんは十代から付き合っているので、知り合って一年半で結婚した私たちよりも、一緒にいる時間は倍長い。
「同棲と結婚はやっぱ違うんじゃない?」
「違うって、何が?」
「なんやろう。密度とか?」
 センタは写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするよう指示した。
「これ、私苦手。すぐびよーんってなって、元の場所に戻っちゃうのよね。」
 案の定、二度ほどびよーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。近々、うちの冷蔵庫をネットオークションで売りたいがどうすればいいかと相談した後、私は電話を切った。似てると思ったことはない、と言われて安心したのだろう。それきり、写真のことは忘れていた。

 旦那に頼まれた小包を郵便局に出しに行った帰り、ドッグランのベンチに座っているキタヱさんを見かけた。私が窓ガラスをコンコンと叩くと、振り返ったキタヱさんが手招きするので、少し寄って行くことにした。
 うちのマンションには住人専用ドッグランがある。エントランスの張り出した屋根部分の上部にウッドデッキを敷いた、小さな公園のようなスペースだ。出入口は二階の共用廊下に面している。
 重い鉄の防火扉を押してドッグランに出ると、
「サンちゃん、こっちこっち。」
 キタヱさんが、ベンチの空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
「ちょうどいい。相手してよ相手。どうせ暇してんでしょ。」
 キタヱさんはそう言うと、自分で改良したカートを引き寄せ、背中のポケットから缶コーヒーを取り出した。紐で繫がれたサンショが、いつものようにカートの上に敷かれた座布団に置物然として丸まっている。キタヱさんは、犬を飼っている家と同じ家賃を払ってるんだから遊ばせないと不公平だと言って、毎日昼過ぎに愛猫のサンショを、このドッグランに日なたぼっこさせにやってくるのだ。私とは三十歳近く離れているのだが、見るからに元気で、いつも背すじがしゃんと伸びている。髪が白くなければ、五十代と間違われてもおかしくないほど肌もつやつやだ。真っ白のジーンズが私よりよっぽど似合っている。
 キタヱさんとは、うちの猫を診てもらっている動物病院の待合室で、サンショの粗相を延々と相談されたのがきっかけで知りあった。うちのマンションはW棟とE棟の二棟からなるこの辺りでは珍しい大型のマンションで、そのぶん人の出入りも激しく、住人同士の繫がりも希薄だ。私に知り合いと呼べる人は、キタヱさんくらいしかいない。初めこそ、猫を無理矢理外に連れ出す怪しげなふるまいに、やや距離を置いていたのだが、お地蔵さんのように座布団の上で微動だにしないサンショがむしろ気にかかって、何度となく声をかけられるうちに、段々と話をするようになったのだった。
 私は隣に座ると、「いい天気ですね。」と言って、缶コーヒーのプルタブを引き上げた。
 蒸し暑さのせいで、少し歩いただけなのに、Tシャツが肌にじっとり張りついている。
「本当にじめじめして嫌になる、日本の夏って。」
 キタヱさんは、陽の当たるウッドデッキのほうを見ながらおおげさに顔をしかめてみせた。ここに越してくる前は、ご主人とサンフランシスコのアパートに住んでいたという。若い頃購入したアパートの価格が高騰したまではよかったが、お陰で年間に支払わなければいけない税金まではね上がって、泣く泣く手放し、日本に戻ることにしたのだと、ついこのあいだ教えてもらった。
 だってねぇ、サンちゃん。買ったアパートに一年で五百万だよ、五百万。ばっかばかしくてやってらんねぇよ。キタヱさんのご主人を一度だけ見かけたことがあるが、にこにこと笑って静かに相槌を打つ、サンショによく似たお地蔵さんみたいな印象の人だった。
「旦那と、顔が一緒になってきました。」
 サンちゃん、なんかおもしろい話ないの、と聞かれ、私はすっかり忘れていたあの写真のことをなんとなく口にした。つまらないと一蹴されるかと思ったが、キタヱさんはぱたぱた団扇がわりにしていた手を止めて、「やだ。」と予想外の食いつきを示した。
「サンちゃんとこ、結婚して何年だっけ?」
「もうすぐ四年です。」
「私さあ、サンちゃんとは知り合ってそんな経ってないから分かんないけど、気を付けたほうがいいよ。サンちゃんみたいな、なんでもかんでも受け入れちゃうような子は、あっという間に……かれちゃうんだから。」
 ウッドデッキを走り回っていたコーギー犬が蝶に吠えたせいで、「……」のところが聞きとれなかった。言い直してくれないかと期待したが、キタヱさんは前髪を持ち上げ、またぱたぱたとせわしなく手団扇をしている。
「写真、今度見せてくれる?」
「あ、はい。」
 それから、キタヱさんはその話にはもうすっかり興味がなくなったようにカートを引き寄せ、サンショの顎をくすぐり始めた。そろそろ頃合いかと、私が立ち上がるタイミングを計っていると、キタヱさんはカートの背中のポケットから、今度は小分けされたビスケットの袋を取り出した。
「私の知り合いの夫婦にさあ、」
 はい。相槌を打って、私は慌てて浮かしかけていた腰をベンチに戻した。キタヱさんがビスケットを砕きながら教えてくれたのは、こんな話だった。

 あるところに夫婦がいた。といっても、キタヱさんは顔も名前もちゃんと知っている、古くからの友人夫婦である。家族ぐるみで親しくしていたのだが、キタヱさんがサンフランシスコに越してからはなかなかタイミングが合わず、十年近く経った頃、ようやく再会する機会に恵まれたのだった。
 十年のあいだに、その夫婦はイギリスに移り住んでいた。ロンドンで食事の約束をし、待ち合わせのレストランに到着したキタヱさんは、「久しぶり。」と椅子から立ち上がった二人を見た瞬間、目を疑った。 
「双子みたいに、そっくりになってたのよ。」

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。

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