思い出すのは、あの子の白い手。忘れられないのは、その指先の温度、感触、交わした心。
あれが虐待だったとは、今でも思っていない。
あれはしつけだった。あの頃のわたしはそう思っていたし、母もそう言っていた。順番は逆だったかもしれないけれど。
両親に手をあげられた憶えは一度もない。ただ、母からよく怒られてはいた。コップの水をひっくり返したり、使い終わったクレヨンを箱の中に戻していなかったりすると、ダメでしょ、とか、いい加減にしなさい、と声を荒らげられていた。
しかし、ベランダに出されるのは、そういうことが原因ではなかった。
わたしには幼稚園に入った年から毎日、夕飯後に「勉強の時間」というものがあった。国語と算数と英語の三科目。初めは、遊びの多い幼稚園児用のドリルだったけれど、そんなものは年少組の夏休みが始まるまでで、年長組に上がる前には小学二年生用のドリルを終えていた。
名門小学校の受験を目的にした、私立の幼稚園に通っていたわけではない。そもそも、あの頃住んでいた町には、名門とか関係なく、私立の小学校などなかったはずだ。覚えた漢字や英単語、九九を披露する場もなかった。
そこで、少しおかしいな、とは感じる。
勉強なんてしたことないよ。九九なんて、小学校で習うんじゃないの?
わたしのささやかな疑問に、周囲の子たちの一〇〇パーセントがそう答えていたら、わたしも自分の家が特別なのではないかと思えたかもしれない。だけど、どこの集団にも、たとえ田舎の公立幼稚園であろうと、特別な子は一人二人はいるものだ。九九など幼稚園に入る前にはマスターしていて、一〇〇年先までのカレンダーが頭の中にインプットされているマサタカくんや、一度楽譜を見ただけでそれを暗記し、ピアノを演奏できるチホちゃんのような子が。
自分が特別なわけじゃない。むしろ、そんな子たちと比べたら、自分のやっていることはごく当たり前な勉強で、特別な子にすらなれていない。
お母さんが望むような……。
だから、ベランダに出されても仕方ない。
ちゃんと覚えられないわたしが悪いんだ。バカなわたしが悪いんだ。全部マルだったらお母さんは笑顔で褒めてくれる。ほら、一〇〇点取れたらうれしいでしょう? そう言って、優しく頭をなでてくれる。
だけど、わたしの頭はなんでもすぐに吸収できるような、柔軟性のあるものではなかった。繰り返し一〇回書けば何でも覚えられるわけではない。まばたきせずに凝視しても、頭の中に焼き付けられるわけでもない。
一〇問中、初めて、三問以上にバツがついてしまった日、母は赤ペンをテーブルに叩きつけるように置き、ハア、と大きくため息をつきながら立ち上がると、情けなさそうに顔をゆがめ、ポツリと言った。
「出ていって」
出るとは、この部屋からということだろうか。2LDKのアパートの居間から、別の部屋へ。子ども部屋なんて作ってもらえていなかった。二つある部屋は、家族で寝る部屋とタンスなどを置いた物置部屋だった。
すぐ行動に移せなくても、母から拒絶されたことはわかる。怒られたことが悲しくて、がっかりさせたことが申し訳なくて、見開いたままの目から涙がこぼれた。すると、母はさっきよりもさらに大きくため息をつき、それにコンマをうつように、舌打ちした。
「お母さん、泣く子が一番きらい。頭の悪い子ほどすぐに泣くのよ。言葉で説明できないから」
涙など、言われてすぐに止められるものではない。それでもどうにかしなければと両手で必死にぬぐっていると、片方の二の腕がぐいと引っ張り上げられた。その勢いで立ち上がると、今度は背中を押され、逆らわずに進んでいくと、目の前のガラス戸が開き、もう一度、背中に強い圧力を感じたかと思ったら、わたしだけがベランダに残されて、ピシャリと戸を閉められた。
ガリン、とすべりの悪い鍵がかけられる音もした。シャッ、とカーテンも閉められた。
ベランダに閉め出された最初だった。
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