戦争への道
広範な「秘密」指定、共謀(陰謀)・教唆・扇動などで処罰される国民威嚇の仕組み―いま参院で審議中の「秘密保護法案」は、日本が太平洋戦争に突入した1941年に施行された国防保安法に酷似しています。「特定秘密保護法の制定に反対する刑事法研究者の声明」(10月28日)も「特定秘密保護法案は、戦前・戦時の国防保安法と類似している」と指摘するほどです。その構造をみてみると―。
国防保安法は、軍機保護法(1937年改定)とともに、戦前・戦中の情報統制の中核をなした弾圧法です。軍機保護法が「軍事上の秘密」を対象としたのに対し、国防保安法は「国家機密」全般を対象にし、最高刑は死刑でした。
「秘密保護法案」との共通点の一つは、秘密の範囲が広く曖昧で「何が秘密かは秘密」なことです。
国防保安法は「外交、財政、経済その他に関する重要なる国務に係る事項」が対象とされ、「その他行政各部の重要なる機密事項」も含まれたので、実際は無限定でした。秘密保護法案は、軍事も含め「安全保障に関わる情報」を広く対象とし、同じように無限定です。
また指定するのが「行政機関の長」であるのも同様。国防保安法は、「主務大臣又は会議の長が国家機密の指定を行う」(当時の司法省刑事局長答弁、41年2月3日)仕組みでした。国民は「国家機密の指定せられる限界について一般人は何も知らぬ」(『問答形式 国防保安法早わかり』41年出版)状況でした。
「知らぬ間」に犯罪者とされ、処罰される仕組みは秘密保護法案も同様です。共通点は、秘密の漏えいとともに探知・収集が処罰対象とされ、それらを教唆、扇動した者、その予備・陰謀までもが処罰されたことです。教唆は漏えいが実行されなくても処罰されます。秘密保護法案では、「陰謀・予備」が「共謀」に置き換えられているだけです。
「法定における手続きで弁護士が国家機密を知得したものを公にすれば犯罪になる」、「(国会議員が)秘密事項と指定されたものを委員以外の議員に内容を漏らした場合…本法に触れる」(前出『早わかり』)点も同じです。
国防保安法制定で、全国の主要都市には強力な強制捜査権限をもつ防(ぼう)諜(ちょう)係の検事が配置され、軍部では憲兵が法施行を担当。「言論統制など戦時のさまざまな統制に猛威を振るい、国民の知る権利を根こそぎ奪」(刑事法研究者の声明)ったのです。
重罰と国民監視でもの言えぬ社会に
政府のごまかし方もそっくり
太平洋戦争突入の直前に施行(1941年5月)された国防保安法。当時の審議でも、数々の疑問・危険が指摘されながら、法律が成立、施行され、社会全体への監視体制がつくられていきました。そこには、秘密保護法制の本質と危険が示されています。
翼賛議会でも表出、言論統制への懸念
国防保安法が提出されたのは、「翼賛議会」と称された第76帝国議会でした。日本共産党以外の政党が解散し、大政翼賛会が結成された次の年でした。
その翼賛議会でも、「このくらい窮屈な法律はない。…国民が政治、経済を議論する場合に窮屈になる、かん口令を敷かれる状態であります。…われわれ政治家、あるいは言論界に携わる者はほとんど極端なるかん口令を敷かれることになるのではないか」(小高長三郎議員、衆院国防保安法案委員会第3回速記録)などと、言論統制への懸念が表出。担当の柳川平助司法相も「国民にややもすれば不安感を与えるようなおそれのあることはお説のとおり」(同前)と答弁していたのです。
秘密保護法案の衆院通過の際、安倍晋三首相は「この法案に対する国民の不安・懸念があることは承知している」とのべましたが、「承知」しているなら強行採決などできなかったはずです。
陸軍局長の答弁も「何が秘密か秘密」
国防保安法の「不安」の最たるものは、秘密保護法案と同様、「何が秘密かも秘密」という問題でした。
これについて、法案提出に大きな影響を与えた陸軍を代表して答弁した田中隆吉・兵務局長(少将)は「これが秘密だということは相手に対して乗ずる隙を与えることになる。これが秘密だということが既に秘密なのであります」(衆議院第4読会)と明言しています。
これに対して、議員からは「どの程度が国家の機密になるだろうか、われわれがまず疑いを抱くのはどの程度のものを守ればよろしいか…ということ」(江原三郎議員、衆院委第2回速記録)などの質問が出ました。
一般人は処罰されないのか、新聞記者はどうか、国会議員は秘密会の情報をどの程度守ればいいのかなどなど、「秘密」の範囲をめぐる問題は当時も焦点でした。
絶大なものだった国民への威嚇効果
当時の政府は、これに対して、「秘密」は「秘密性も極めて高度なもので、ごく小範囲のものに限られる」とか、「国民全般が自粛自戒しておれば引っかかることはない」などと、ことさら影響を少なくみせようとしました。
今日、安倍首相が「(秘密の)9割は情報収集衛星の画像や暗号だ」などと国民生活に関係ないようにいっているのと同様です。
しかし、国防保安法は実際には「国家機密であろうと推測しながら、公にしたり新聞に載せたりすると法に触れる」(『国防保安法早わかり』41年出版)とされ、一般人も処罰されました。
法が施行された41年の検挙数は59件。軍機保護法違反の149件(内務省警保局編『外事警察概況』)には及びませんが、国民への威嚇効果は絶大なものがありました。
国防保安法施行の2日後の5月12日からは「全国防諜(ぼうちょう)週間」が開始され、「全国一斉にラジオ放送、週報・写真週報の特集、講演会、読書会等の催物が行われた。その他地方防諜委員会の設置促進、警察官警防団の訓練が実施され、各地で国民が強制動員された」(纐纈(こうけつ)厚「戦前期『秘密保護法』の役割」、『現代史と「国家秘密法」』所収)のです。
全国には防諜係の検事が配置され、軍部では憲兵隊が法の運用にあたりました。新聞は、「秘密秘密と漏らすな秘密」「恐れよ外人スパイの手」などと“防諜スローガン”を掲載。国防保安法は「憲兵政治」と称された東条内閣の最強の武器となり、“物言えぬ社会”がつくられていったのです。
国民の日常生活や内心まで監視の目
しかも、国防保安法にもとづく捜査は、尾行、内偵などのプライバシー侵害性の高い捜査方法が積み重ねられました。
当時の司法省刑事局長は、影響が大きいために、「いかなる時期にいかなる事件を検挙いたすことが最も適当であるかということが極めて重大な問題」として、「相当期間にわたり、内偵の結果、発覚するような場合が多い」と答弁。「人権蹂躙(じゅうりん)の問題を惹起するおそれ」も否定していません。(衆院委第3回速記録)
別の答弁者も「準備の周到を期しつつ検挙の時期を待つというのが防諜警察の一般的順序段階だ」(貴族院委員会速記録)としています。
これは、「陰謀、教唆、扇動」などで処罰するという、国民の日常生活を監視したり、内心までのぞかなければ立証できない規定からくる、ある意味当然の結果でした。
「秘密保護法案」でも、「共謀、教唆、扇動」などで一般国民が処罰されることを、政府は認めています。その際、盗聴やおとり捜査、内偵などのプライバシー侵害が再現しない保証はありません。