─ 2012年9月第2週
めるまがアゴラ有料版、第008号をお届けします。
コンテンツ
・「ゲーム産業の興亡」(18)ゲーム産業を生みだした要因と将来トレンドの整理
・『気分はまだ江戸時代』連載第007回 「優秀な兵士と無能な将校(その一)」与那覇 潤 / 池田 信夫
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特別寄稿:
新 清士
ゲーム・ジャーナリスト
「ゲーム産業の興亡」(18)ゲーム産業を生みだした要因と将来トレンドの整理
今回は、これまで行ってきた大きなトピックの議論を整理してみよう。ゲームがどのようにして発展し、将来的にどのような存在になっていくのかという、一定の方向性が見えてくる。
■ゲーム産業を構成し牽引する要因の整理
「広義のムーアの法則」は、ユーザーの手元にあるクライアントレベルのハードウェア性能の引き起こし、過剰なまでのコンピューティング環境を整えた。それは通信インフラにも、SNSサービス事業者側のサーバ環境にも恩恵を与えている。同時に、この環境で課金システムも簡素化され、ゲームを利用し続けるために必要な支払いが簡単になった。
生の現金を移動させる必要がなく、携帯電話会社とクレジットカード会社とゲーム会社との間で、決済を行うことが出来るようになった。
そして、パッケージゲームのように、メディアにして提供する必要がなくなった。ゲームを遊びたい場合には、アップルのApp Storeや、グーグルのGoogle Playのように購入して直接ハードウェアにダウンロードしてしまうことができるようになった。
また、ゲームを遊ぶごとにデータを送信するというソーシャルゲームで一般的に見られるようなクラウドを前提としたゲーム展開を可能にするようになった。
そのため、ゲームは、一つの完結した「作品」ではなく、継続的な「サービス」としての趣が強くなってきている。在庫もなく、オンデマンドであるため、一度成功すると既存のパッケージゲームが流通システムを持ち、小売店を通じて販売しなければならないコストに比べて、圧倒的に高い利益率が生まれる現象が起きるようになった。
「人口」の面では、ゲームはコンピューティング環境の発達と強く結びついており、ゲームのインタラクティブ性は、多くの人をひきつける。特に若い世代に対してのアピールが強い。特に先進国では、1980年代にゲームが登場して以来、ゲームを遊んだ経験を持つユーザーの人口が世代を重ねることによって増え続けている。
年齢が高くなると、ゲームに触れなくなっていく人の数も増えるが、継続的に遊び続けている人もいるため、全体としては増加傾向にあると考えて良い(ただし、日本では人口減少の影響が大きく生まれはじめている)。
「可処分所得」と重ねて考えると、先進国でゲームが普及することを可能にしたのは、各家庭の可処分所得と密接に絡まり、同時に安価になっているコンピューティング環境の普及とも結びついている。ゲームは、各家庭が子供にも買い与えることが、十分に可能なほど安価になったことによって爆発的に普及が始まった。
現在では、さらに発展途上国を中心に、新規にゲームを遊ぶことに参入してくる人口が増え続けている。インターネットカフェのような仕組みが2000年代に韓国から中国などアジア圏を中心に普及したが、その市場形成を引っ張る役割をゲームが担っている。
また、アンドロイド端末といったスマートフォンが300ドル台と価格が安価になってきているため、比較的所得が低い地域の層でも手が届くようになってきており、そうした人たちもゲームを遊ぶ。そのため、全世界のコンピュータを所有していない人のすべてが、コンピュータを所有するまで、ゲームの参加人口は増加し続けると考えられる。
一方で、「可処分時間」は、コンピューティング環境の普及によって、激しいメディア間でのユーザーの奪い合いを引き起こしている。無料で見ることができる映像や音楽、Twitterといったミニブログなどに代表されるSNSのさまざまな新しいサービス、映画や書籍等の既存のメディアのオンデマンド化は、ユーザーの自由に出来る時間を奪うための激しい争いを引き起こしている。
そのため、インターネット上に展開される個々のサービスには、常に価格下落を引き起こす圧力が掛かっている。そのため、ゲームを遊んでいるユーザー数は何億人という膨大な人数を抱えているが、その割には、相対的に産業規模は自動車産業といった製造業などに比べるとはるかに小さい。ただし、これはゲーム産業だけに見られることではなく、娯楽全般に見られる現象でもある。
■ゲームは今後も人類の一定の領域を占め続ける
これらのことを踏まえると、この5年あまりの間に、家庭用ゲーム機から、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)上で広がっているソーシャルゲームに、急激にユーザーが移動しはじめるようになった要因を理解することも出来るだろう。この状況には、長期的なトレンドの視点からも捉えることが出来る。
ユーザーの手元には、安価になった強力なコンピューティング環境が存在し、ゲームというコンテンツそのものへも極めて安価に触れることができ、自分の好む時間(ほんの5〜10分の移動中の隙間時間にさえ)にゲームを遊べるようになった。また、ゲームを遊んだ経験を持つユーザーは増え続けており、環境が整えば再びゲームを遊んでもらえる可能性が増えている。
一方で、パッケージゲームの時代に比べて、ゲームは固定価格で高い価格設定ができなくなってきている。そのため、単純に収益という面では、特に先進国では市場規模が縮小してきている。しかし、ゲームを遊んでいる世界の人口自体は増え続けているため、ダウンロードされるゲームの数などは増大していると考えて良い。
これら方向性は、ゲームが持つインタラクティブ性に魅力がある限り、当分の間、大きなトレンドとして変化はないと考えられる。ゲームは、ユーザーにとってさらに身近な存在となり、人類の生活の中で、一定の領域を、常に占め続けるだろう。ただし、短期的なビジネスとしての産業のあり方の変化は、別に考えていく必要があるだろう。
新 清士(しん きよし)
ジャーナリスト(ゲーム・IT)。1970年生まれ。慶應義塾大学商学部、及び、環境情報学部卒。他に、立命館大学映像学部非常勤講師。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表。日本デジタルゲーム学会(DiGRAJapan)理事。米国ゲーム開発の専門誌「Game Developers Magazine」(2009年11月号)でゲーム産業の発展に貢献した人物として「The Game Developer 50」に選出される。連載に、日本経済新聞電子版「ゲーム読解」、ビジネスファミ通「デジタルと人が夢見る力」など。
Twitter ID: kiyoshi_shin
『気分はまだ江戸時代』
与那覇 潤
池田 信夫
第八回
優秀な兵士と無能な将校(その一)
池田 最近、大鹿靖明さんの『メルトダウン』という福島第一原発事故についてのドキュメントを読んだんですが、これが有名な『失敗の本質』という日本軍についての本とよく似ているのです。昔から日本軍の兵士は世界一優秀で勇敢だが、将校は無能だと言われてきました。それと同じことが21世紀にも見られる。
福島第一原発では、現場はみんな命がけで、フクシマ・フィフティといわれる人々が頑張っているのに、首相官邸は地下一階と5階の間もファックスがつながってないというひどい危機管理体制で、みんなテレビ見て状況を知っていた。現場がタコツボ化して、全体の指揮者がいない。
特に情報の管理がめちゃくちゃで、下手をすると現場(経産省)が指揮官(首相)についての怪情報を出して足を引っ張る。とにかくかつての戦争で日本人がぼろ負けしたのと同じ戦い方をいまだにしている。
日本人がグローバル化に後れる原因はいろいろあると思うんですけど、一つは現場の自律性が強すぎる。それは今までの話から言えることですね。
つまり日本人は狭いコミュニティの連合体として長い間やってきたものだから、全体を統治する強い専制君主というのを遂にもつことがなかった。形の上では天皇というけど、天皇は何も力をもってないわけです。
そういうゆるやかな現場の連合でずっと来ているから、役所だって局あって省なしと言われるぐらい現場の自律性が強すぎて、トップダウンで決められない。みんなボトムアップで上がってきて、稟議書を回して、役員会では本部長同士の話し合いで決めるから、事業を売却するとか買収するとか、そういうのが全然できない。
高度成長期には、こういう現場のレベルの高さがほめられたわけです。細かく言われなくてもきびしく品質管理し、勤勉革命よろしく残業して納期に間に合わせる。私がNHKに勤務してたとき、報道番組の編集の時間は「NHKスペシャル」みたいな大きな番組でも、試写やダビングを除くと正味1週間ぐらいしかない。
元のテープは多いときは50時間ぐらいあって見るだけで3日ぐらいかかるのを1週間ぐらいで編集するんだから、完全徹夜を前提にしてスケジュールを組んでいるのです。
BBCの人と一緒に仕事すると、6時ごろになると時計を見て「もう帰ろう」という。
「帰ったら間に合わない」というと「もう退勤時間が来た」という。しょうがないから、徹夜仕事はNHKだけでやって、翌朝来たらBBCの人が「ああ、もうできたのか」と言う。それぐらい仕事の仕方が違うんです。
日本がなんであれほど奇跡的な高度成長できたかっていうと、そういう非合理的なガンバリズムで、会社がとてもできないような納期を出しても、サラリーマンは残業の嵐でそれをこなすという、涙ぐましいやり方でやってきた。しかしもうそういうガンバリズムではどうしようもない。
まさにフレーム自体が大きく変わっているのに、昔の勤勉革命のままでそれ乗り越えようとしてもできないわけです。
大きな枠組みそのものを切り替える経営者というか、指揮官がしっかりしなきゃいけないんだけど、悲しいかな、日本の組織は指揮官が命令したら現場が動くというふうになってない。だからソフトバンクとかユニクロとか、創業者が全社員に命令一下でやれる数少ない企業だけが高いパフォーマンスを示している。
それが日本が行き詰っている一つの原因で、それは大きく言うと日本の伝統というか、いい意味では現場が強い、悪く言うと高いレベルの意思決定ができないということなんじゃないか。
與那覇 言い方を換えると、しばしば日本人が大好きな誉め言葉として、「現場力が高い」というのがありますね。「ガンバリズム」というのも、まさにそれと同じ現象を指しているわけで。
しかし、そういう「日本人の長所」は、常にコインの裏表のような「短所」とセットになっているんだ、というのが、私の本で伝えたかったメッセージなんです。
これまでもよくありがちだった「日本人論」とか「日本文化論」というのは、「日本人のここはいいところです。逆にここはダメなところです。
なので、これからはダメなところは反省し、いいところを伸ばす日本人になりましょう」みたいな話だったわけです。しかし、それは現実には何の解決ももたらしてこなかった。むしろ「長所と短所」はワンセットになっていて、必然的にある長所の裏側には、対応する短所が張りついている、というふうに理解しないと、問題を見誤るのではないか。
それでは「現場力が強い」とか、「ガンバリズムで乗り切れる」という長所の裏にあるものは何かというと、それがまさに「フレームを切り替える能力がない」という短所そのものだと思うんですね。人間って、「今、俺がこういうふうに物事を捉えているフレーム自体に、限界や間違いがあるんじゃないか?」というかたちで、自分が持っているフレームを相対化し始めてしまうと、頑張れなくなってしまうんですよ。
「他のフレームもあるはずだ」という可能性に思い至ってしまうと、「えー! じゃあ、今俺が頑張ってること全部無駄じゃん」という懸念に思い至ってしまって、頑張れないわけですね。
逆に「、とにかく俺はもうこの会社で一生を送るしかない」、そして、「だから、その会社が指定した仕事のやり方の枠内で、やり抜くしかない」と信じ込んで、他のフレームを捨てているからこそ、むちゃくちゃ過酷な労働条件でも頑張り抜けるというところがある。
先ほど、池田さんが『メルトダウン』の話をされました。やはり3・11や、その後に原発事故への対応をめぐって起きたことを、歴史的にどう位置づけるかというのは、いちおうは歴史学を本業にしている私にとっても大きな関心事です。
実際、日本史分野の学者どうしで集まると、しばしばその議論になるんですが、さる同年代の研究者に指摘されてはたと膝を打ったのは、「やっぱりあれは、日本がまだ江戸時代型の『職分国家』であることを示したよね」という指摘。確か震災から1か月たっていない、都内は計画停電発動中の頃だったと思いますが、それがもう、私には非常に印象的だったんですね。
それこそフクシマ・フィフティと呼ばれた献身的なまでの現場の事故対応も、その方が言うには「、愛国心とかパトリオティズムとか、そういう文脈で海外のメディアは持ち上げるけど、明らかに違うだろう」と。そうではなくて要するに、「自分の職場で起こってしまったことだから、自分がやらないわけにはいかない。
自分の『職分』だけはきちんと遂行しないと世間に顔向けできない」という発想だろう、と。それを聞いて「あっ!」と胸を突かれましたね。本当にそうだよなあって。
つまり江戸時代以来、日本人のアイデンティティというのは、自 分が社会的に与えられた「職分」を果たすことに置かれてきた。職務遂行こそが、その人の社会における存在意義を保障してきたわけですね。江戸の身分制というのはまさしくそういうもので、専門家の用語だと「家職制」とか「職分制」という言い方をすることもあります。
つまり、武士や百姓といった「身分」と、それぞれが果たすべき(たとえば農作業のような)「職分」、さらにはどこでそれを果たすべきかという「共同体」が全部バンドルされて、ワンセットになっている。そして、それを果たす限りにおいて、自分はこの社会の役に立っているんだというふうに思えるようになり、また「家族」を養えるだけの収入も保障されると。
ここで恐ろしいのは、もちろん職業にアイデンティティを感じること自体は、ヨーロッパ人にも中国人にもたぶんあるんだろうと思うのですが、日本の場合はそれが単なる「職務」のみではなく「身分化」されているということなわけです。
池田さんも当時ツイッターでつぶやかれていましたが、おそらく海外だったら、消防士が「原発事故の放射能を抑える仕事に行け」と動員されたら、断るだろうと。
それはjob descriptionに書いてないわけですから。西洋型の社会であれば、職というものは「こういう仕事をしなさい、こういうタスクをこなしなさい」という内容を明示するかたちで割り当てられているので、「俺は火を消すのが職務なのであって、原発事故の現場に放り込まれて放射能を抑えてこいって、それは俺の仕事じゃないよ」と断ることができる。
ところが日本人の職業観はそうではなくて、江戸時代のように「あなたの身分はこれであり、あなたの居場所はここなんだ」というかたちで決まっていますから、消防士のアイデンティティは実は、「火を消すこと」ではないんですね。
消防隊員という「身分」を獲得して、そのチームの「メンバー」であることがその人のアイデンティティだから「はい、やれ」って部隊ごとに命令が下ったら「やります!」と言わざるを得ない。たぶんそういうことになっているんじゃないかと思うと「、原発事故に立ち向かった日本人」は愛国心ではなくて、職分制で動かされていたという研究者の言には、つくづく得心がいくわけです。
※ 次号「優秀な兵士と無能な将校(その二)」に続く。
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