満州が逼迫した状態にありながら、日本政府の反応は鈍いものでした。 排日行為が激化したのを指摘しても 「現地で解決せられたい」と半ば責任放棄の格好になっていました。この政府対応について重光葵は 「幣原外交は、外交上の正道を歩み誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満州問題ごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案が持たぬことであった」 先生が書いているように満州を攻撃する以外の対案がない状態だったわけですね。 石原が一番恐れていたことは、満州を攻撃することによる国際社会の反発です。石原はアメリカ、ソ連は全く日本に容喙する余地がないことを見抜き、「世界を挙げて来攻するも、さらに恐るるものではありません」と本庄繁司令官に言っています。 石原の読みは見事に当たり、スチムソン国務長官は「もし誰かが満州事変を計画していたとしたら最好機をつかんだものだ」と評したといいます。 石原は満州を「満州統治の根本は独立国」にし「日本の持っている権益を贈り物として捧げ、日本人も満州国人として、満州国の構成分子として働きましょう!」と満州の巨頭に約束しました。 この関東軍の暴走について昭和天皇はかなり憂慮しており、若槻首相に対して「満州事件の範囲の拡大を努めて防止すべしとの閣議の方針を貫徹するよう」求めました。 内閣と陸軍が対立している中で昭和天皇は不拡大方針を支持をしていましたが、政府が朝鮮からの増兵を認めた為に昭和天皇はこれを裁可しました。既に世論は満州事変の拡大を支持しており、昭和天皇もそれに従うしかありませんでした。 世論の暴走は昭和天皇も止めることはできません。 満州事変を起こした石原莞爾ですが、支那本土を攻め込むことには大反対でした。 理由は、いまは満州国は育成途上にあること、なによりも支那との民族相互関係を破壊するのを恐れたからです。石原の持論として 「いやしくも満州国の育成を完遂しようとするならば、長期持久の抗戦に徹し、物心両面の備えが肝要だ。かかる暁こそ、蒋介石が参ってしまう時である」がありました。 しかし、盧溝橋から暴支膺懲論が高まり、その世論を背景に武藤章作戦課長は石原莞爾に 「部長閣下、抗日侮日の打倒はいつやるんですか。いけません。いけません。今やらないでいつやりますか!」と激しく石原を批判し、石原も派兵を許可する結果になってしまいました。 近衛内閣は世論に押されるように北支へ出兵し、その波は支那全土に及びました。 石原莞爾が何故負けたのか?というと、理論的には石原の考えが正論であったにも関わらず、世論をバックにした陸軍の強硬派の意見に負けたからです。 満州事変の時は世論は石原の味方でしたが、支那事変の時は世論はすでに石原に見切りをつけてました。 今上陛下のお言葉の「反省」はいろいろな解釈があると思いますが、僕は世論の暴走により、支那事変が拡大をしてしまったこと、それにより、支那との間に深い亀裂が走り、今尚、その傷が癒えなくなった事態を作り上げてしまったことを深く反省します。
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満州が逼迫した状態にありながら、日本政府の反応は鈍いものでした。
排日行為が激化したのを指摘しても
「現地で解決せられたい」と半ば責任放棄の格好になっていました。この政府対応について重光葵は
「幣原外交は、外交上の正道を歩み誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満州問題ごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案が持たぬことであった」
先生が書いているように満州を攻撃する以外の対案がない状態だったわけですね。
石原が一番恐れていたことは、満州を攻撃することによる国際社会の反発です。石原はアメリカ、ソ連は全く日本に容喙する余地がないことを見抜き、「世界を挙げて来攻するも、さらに恐るるものではありません」と本庄繁司令官に言っています。
石原の読みは見事に当たり、スチムソン国務長官は「もし誰かが満州事変を計画していたとしたら最好機をつかんだものだ」と評したといいます。
石原は満州を「満州統治の根本は独立国」にし「日本の持っている権益を贈り物として捧げ、日本人も満州国人として、満州国の構成分子として働きましょう!」と満州の巨頭に約束しました。
この関東軍の暴走について昭和天皇はかなり憂慮しており、若槻首相に対して「満州事件の範囲の拡大を努めて防止すべしとの閣議の方針を貫徹するよう」求めました。
内閣と陸軍が対立している中で昭和天皇は不拡大方針を支持をしていましたが、政府が朝鮮からの増兵を認めた為に昭和天皇はこれを裁可しました。既に世論は満州事変の拡大を支持しており、昭和天皇もそれに従うしかありませんでした。
世論の暴走は昭和天皇も止めることはできません。
満州事変を起こした石原莞爾ですが、支那本土を攻め込むことには大反対でした。
理由は、いまは満州国は育成途上にあること、なによりも支那との民族相互関係を破壊するのを恐れたからです。石原の持論として
「いやしくも満州国の育成を完遂しようとするならば、長期持久の抗戦に徹し、物心両面の備えが肝要だ。かかる暁こそ、蒋介石が参ってしまう時である」がありました。
しかし、盧溝橋から暴支膺懲論が高まり、その世論を背景に武藤章作戦課長は石原莞爾に
「部長閣下、抗日侮日の打倒はいつやるんですか。いけません。いけません。今やらないでいつやりますか!」と激しく石原を批判し、石原も派兵を許可する結果になってしまいました。
近衛内閣は世論に押されるように北支へ出兵し、その波は支那全土に及びました。
石原莞爾が何故負けたのか?というと、理論的には石原の考えが正論であったにも関わらず、世論をバックにした陸軍の強硬派の意見に負けたからです。
満州事変の時は世論は石原の味方でしたが、支那事変の時は世論はすでに石原に見切りをつけてました。
今上陛下のお言葉の「反省」はいろいろな解釈があると思いますが、僕は世論の暴走により、支那事変が拡大をしてしまったこと、それにより、支那との間に深い亀裂が走り、今尚、その傷が癒えなくなった事態を作り上げてしまったことを深く反省します。