武藤 のコメント

欧米諸国は植民地を国連が出来ても放棄しなかっだのは、彼らが進化論に基づいた適者生存を信仰しており、アジア、アフリカを征服し利益を得ることは自然の摂理だとして来たからです。
イギリスに至ってはイギリスの優越的地位こそが人類への義務を果たすことになると欧米諸国にまで押し付けを行なっていました。
「イギリスが自らの独立の為に戦う時には、同時にヨーロッパの自由の為にも戦ってきたということ、かくしてヨーロッパ及び人類の為に果たしてきた貢献は、帝国という名に価するあの偉大な貢献を可能にしてきた」
しかし、第一次大戦後にイギリスの地位は低下し、代わりにアメリカが台頭してきました。アメリカは大英帝国のように自国の利益は世界の利益になると主張するようになりました。既に第一次大戦後中にウィルソン大統領は「アメリカは人類の為に建設された…アメリカの政策は人類の原理であり広がっていかなければならない」
このアメリカの政策は人類の政策であるという独善的な考えこそが、満州事変の一大原因になっていくのです。
1921年にアメリカ大統領ハーディングの提唱でワシントン会議が開かれました。これは支那の領土保全を促進する為に各国共通の方針を確立すること、及び日英同盟を廃止して国際協調外交を作ることが目的になります。
アメリカはヘイ国務長官の時代から支那全土の門戸開放を「核心の原則」としており、「その為にはいかなる努力や犠牲を惜しむものでない」としてきました。
ワシントン会議で結ばれた四ヶ国条約はアメリカが重視する門戸開放を明言しただけでなく、国際的に認知されていたよりも「はるかに明確な解釈」を与えたものでした。
日本はこのワシントン体制を極めて忠実に守ったとアメリカの外交官マクマリーは言っています。
日本にとっては屈辱的でプライドが傷ついたことでしょうが、支那の安定の為に涙を飲んだ格好でした。
しかし、支那の情勢は日々追うごとに激化しており
「国際的な話し合い」で解決できるレベルを超えて行きました。にも関わらず、アメリカは支那に同情する態度を取った為に日本側はアメリカに対して不信感を募らせていきました。
佐分利貞夫は「中国に関するアメリカの政策が理想主義に囚われて、非現実的な利他主義に陥ることがないか」再三懸念を表明しました。
アメリカは支那情勢がいくら逼迫してきても、支那に対して同情的な態度を取り続け、居留民保護の為に出兵した日本の政策も非難し続けました。
そんな日本に大きな転機が訪れたのが張作霖爆殺事件です。
張作霖は日本の勢力を背景に台頭し、清朝崩壊後はその勢力は全満に及び満州王と俗称されるようになりました。やがて支那統一の野望を抱き、万里の長城を越え、北京政権を掌握し、大元帥と号するようになりました。それにより、それまで、協調していた日本に対して反抗して満州から日本の勢力駆逐を図ることになりました。
この張作霖の排日政策について軍人だけでなく、当時の田中義一内閣の外務次官であった吉田茂も怒り、張作霖排除に乗り出そうとしていました。
結局は「満州問題解決は張作霖を殺せば足りる」という信念を持った河本大作大佐に爆殺されてしまいました。
あとを継いだのは「危険なほど、わがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と父から学んだ残酷な手法」を用いる張学良になり
奉天に国民党旗を掲げ、蒋介石に帰属するという最悪な「中国統一」をしてしまいました。
張学良は南満州鉄道枯死政策を中心に日貨排斥、日人圧迫、さらに膨大な軍備を建設しました。
これにより「ワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での積極政策を唱えていた陸軍閥が優位」になり、満州事変が起きてしまいました。そんな緊迫な状況であったにも関わらず、イギリスのセシル卿は国連で「今日ほど戦争が起こりそうな時代はない」と1931年9月10日に演説しました。同年、9月18日に日本は満州への軍事作戦を開始しました。このような現場と現場以外のズレをチャーチルは「政治家が言っていることと、多くの国で実際に起こっている事態との間に、今日ほどズレのある時代は私はどうしても思い起こすことはできない」と言っています。
日本はワシントン体制を遵守しようと、一生懸命でしたが、支那の状況があまりも悪く、話し合いが全く通用しない状況でした。その中でも幣原は協調外交を続けようとしましたが、もはや世論はそれを支持せず、暴走をした関東軍に喝采を浴びせたのでした。

No.31 112ヶ月前

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